「うーーーん、気持ちいい!」
泡の中でぐうっと腕を伸ばす。普段の教師と家政婦仕事の二重生活で疲れ切った身体を、柔らかな泡と甘い香りが包み込んでいく。ふと思いついて、手のひら
に一すくい泡を乗せてふうっと吹くと、小さなシャボン玉がいくつも飛んでいき、むぎは目を細めた。
「こういうの、やってみたかったんだよね」
小さな希望にすがっている現在の生活の心許なさや、未だ姉の見つからない焦り。気づかないうちに心に溜まっていたささくれがじんわりとほどけていく。目
を閉じて、心地よさを満喫していたむぎは、その気配に気づかなかった。
「もしかして、どろぼうさん?」
「え? きゃあっ、瀬伊くん!?」
「あれ、むぎだったの」
ドアを開けてひょっこり顔を出したのは、瀬伊だ。むぎは思わずしゃがみ込んで、泡の中にうずくまった。見えないとは思うけど、心臓に悪い。
「な、な、なんでここに!? いつ帰ってきたの?」
「ついさっき。だって、こんな時間にお風呂を使う人がいるなんて思わなかったんだもん。どろぼうかと思って」
「そんなこと、あるわけないじゃん!」
「そう? だって、この前君も同じことしたじゃない」
ぐっとむぎは詰まった。つい先日も、瀬伊が風呂に入っている最中にドアを開けて、怒られたばかりだ。
「あ、あれは、もしかしたら、ファンの女の子が入り込んでるのかと思って…」
「へえ、それで2回ものぞいたの」
「え、えっと、それは……」
マズイ。言えば言うほど墓穴を掘っている気がする。このままでは、彼のペースに乗せられてしまう。
「…えーっと、とにかく。今はあたしが入ってるんだから、出てってよ」
「えー、僕を追い出すの? むぎってば冷たい」
「冷たくないってば! もー、お湯かけちゃうよ」
立ち上がってお湯をかけようとしたら、「あ、見える」と笑い含みの言葉が聞こえて、慌ててまたしゃがみ込んだ。く〜〜っ、また湯船に逆戻りだ。勢いよす
ぎて飛び散ったお湯を器用に避けた瀬伊が笑っている。
「なあに、むぎ。もう終わり?」
「…う〜〜、瀬伊くん、知っててやってるでしょ…?」
「うん? こんなご時世だし、君はいつもいろんなことに巻き込まれてるから、心配なだけだよ」
嘘だ! 笑い収めた瀬伊の言葉に、むぎがツッコミを入れようとしたら、当の本人はくるりと向きを変えた。
「でも、どろぼうはいなかったみたいだし、もう行くね」
「へ?」
「なに。いてほしかった?」
からかうような声に、かあっと頬が熱くなる。
「ほしくない!」
思い切り声を上げたときには、ドアが閉じていた。
「まったく。のぼせちゃうよ…」
むぎはほうっと一息ついた。これってこの前のお返しなんだろうか。でもあたしあの後謝ったのに…。ブツブツぼやいていると、ドアの向こうで「むぎ」と声
がした。
「瀬伊くん!? も、もしかして謝りに来てくれたの?」
「君じゃあるまいし、そんなことしないよ。ここでまた開けたら、ただののぞきでしょ?」
見てほしいならいくらでも見るけど、と続く言葉に、顔が引きつる。これはやっぱり、怒ってる…? 身構えたむぎは、瀬伊の次の言葉にほっとした。
「この香り、すごくいいね。君にすごく似合ってる。どこで買ったの?」
「遊洛院さんにもらったの。外国で買ってきたんだって。あたしもすっごく気に入ってるんだ」
「そっか。僕も使っていい?」
「うん、もちろん!」
香りの好みが同じなんて、嬉しいな。なんて思ってたら、とんでもない言葉が来た。
「じゃ、今度一緒にお風呂に入ろ」
「は!?」
「そのときに使おうね。これ、僕がしまっておくから」
じゃ、また後で。そう言うと足音は遠ざかっていった。
………今度、使う? ……一緒に、…お風呂って……。
「えええええっ!?」
甘い香りの漂う浴室に、盛大な悲鳴が反響した。