「ただいま。おや、誰もいないのかい?」
依織は、玄関を開けて首を傾げた。今日はむぎは早く帰れると言っていたはずなのだけど。でも、玄関にはむぎの靴がちゃんとある。
「むぎ? いるの?」
リビングにもキッチンにも、人影がない。二階へ上がって、むぎの部屋を軽くノックした。……返事はない。
「ちょっと失礼するよ」
ドアを開けてみると、そこには、雑誌を手にしたまま、眠り込んでいるむぎの姿があった。
「風邪を引くよ、むぎ」
声をかけても、反応がない。よほど深く眠り込んでいるようだ。
「……疲れているんだね。このところ、昼も夜も、がんばっていたから」
毎日顔を合わせていて、むぎがどれだけがんばっているか知っている。
もっと休むように、手を抜いたっていいと、今までに何度言っても、
「お給料をもらっているし、あたしがやりたくてやってるんだから」
と譲らないむぎを見ている。握りしめている雑誌のページは、『季節を感じる和のメニュー』だ。むぎの心遣いは嬉しいが、せめて他の三人がいない今日ぐら
い、ゆっくり休ませたい。
「今日は、手の中のものをみんな手放して、ゆっくりお休み」
眠るむぎのそばに座り、頭をそっと膝に乗せた依織は、手の雑誌を抜き取ろうとした。すると、眉を寄せて、かすかにいやいやをする。首を傾げた依織は、も
う一度雑誌を引っ張った。
「や……。いお、り、くん……の……」
ますます握る力が強くなる。眠っているはずなのに、取られまいと必死だ。まるで、自分への気持ちは絶対に手放さないと言われているようで。
「嬉しいけど、どうせなら、こっちにしてくれないか」
そっと指を外して、自分の手を握らせる。瞬間むぎの顔がふわりと微笑んだ気がした。
そして。
「ん……」
あったかくて、気持ちいい……。
むぎは無意識に、その温もりに体をすり寄せた。大好きな何かでいっぱいで、幸せをかみしめてる感じ。心落ち着くいい匂いに
包まれて、さらさらと優しい何かが撫でてくれている。嬉しくて嬉しくて、ぎゅっとそれを抱きしめた。その途端、ふと動きを止めた気がしたけど、すぐにま
た、優しい動きが再開した。指で髪を梳かれて、徐々に意識が目覚めていく。
むぎは、ゆっくり目を開いた。目の前にあったのは。
「おはよう、むぎ」
依織の整った顔がすぐ近くにあって、一気にむぎの頭は覚醒した。
「え、えっと、何? ……あ、あたし、寝ちゃってた!?」
「うん、よく寝てたよ」
「あ、うわっ、夕飯まだだった。ごめんね。すぐ用意するから」
あたふたと立ち上がろうとするむぎを、依織は優しく抱きとめた。
「いいよ。夕飯は、もっと後で」
「え? でも、おなかすいたでしょ? 待ってて。急ぎでできるメニューもあるから」
「夕食は、外に食べに行こう。いいお店を見つけたんだ。君と一緒に食べたくて」
「もう、依織くんってば。……ちょっとあたしに甘すぎるよ」
優しく髪を梳きながら言われて、むぎは頬を赤くして、困ったように笑った。その言葉に、依織はむぎの顔をそっと両手で包み、自分の方を向かせた。
「それは、君の方だよ、お姫様。いつもいつも、君は、僕たちのためにがんばりすぎてしまうからね」
君を甘やかしてあげたいんだ。だから、ほら。
依織は、さっとむぎを抱き上げ、自分の膝に座らせた。背中に、依織の温もりがある。
「い、依織くん? あの、これじゃ……」
「もっと寄りかかって。……僕がこうしたいんだよ。お姫様を、甘やかすために」
見上げるむぎに微笑んで、瞼に、ふわりと軽く口づけて。
ゆっくりと、続きをしよう。
唇なぞる指先が、そう誘った。