パソコンに向かい、一哉は先ほどの仕事の続きに取りかかろうとした。しかし何度読んでも内容が頭に入らない。緊急を要する決済だというのに、先に進まな
い。
「……ああ、くそっ」
珍しく悪態を付くと、パソコンの電源を乱暴に落として書類を横に積み上げた。むぎが見ると目をつり上げそうな光景になっているが、気に留めずに隣の部屋
へ向かった。
もう日付が変わる時刻だ。一哉は少し躊躇したが、部屋の中でむぎが動いている気配がする。短くノックをした。
「俺だ。入ってもいいか」
扉を開けようとすると、
「一哉くん!? ……えと、ちょっと待って」
ゴトゴトと何かを動かす音と共に、むぎが答える声がした。いつもより声が高い。妙に慌てた口振りに、一哉の眉が寄った。
「開けるぞ」
返事を待たずに扉を開けると、今まさにむぎがこちらを振り向くところだった。
「なに、一哉くん。随分急だよね」
笑顔がどことなくぎこちない気がするのは、一哉の気のせいか。すうっと一哉の体温が下がる。
「ほお。バレンタインの夜にわざわざ来てやったご主人様に対して、言うことはそれか。まだ他にもチョコを持っていたりしてな」
「え。それ、どうして……」
思わずむぎの口からこぼれた言葉が、これは図星だと一哉に教える。一哉は舌打ちしたくなった。
「ふん。持っているんだな。今から誰に持っていくんだ。一宮か」
「な、そんなことしないよ! なに言いがかり付けてんの」
「だが、事実だろうが。どこにあるんだ」
「そんなチョコ、ないよ!めちゃくちゃ言わないで」
詰め寄った一哉の目の端に、赤と金色が見えた。リボンだ。
一哉は、机にある本の間に、半ば隠れた箱を見つけた。体中の血が逆流する。一哉の視線を追っ
て、む
ぎもその箱を認めた。
「あ、これは、その、違うの」
手を伸ばして箱を取ろうとするむぎより速く、一哉が箱をつかんだ。落ち着いたワインレッドの包装紙に、金色の『St.Valentine
Day』の文字が踊っている。
「何が違うんだ」
乱暴にむぎの腕をつかむと、逃げられないように身体を壁に押しつけた。あごを持ち上げ、噛みつくようなキス。痛みにむぎが身をよじる。
「やっ、一哉く」
「行かせると思っているのか」
「ね、聞いて」
「これは誰のものだ」
むぎが、顔を上げた。紅潮した頬を見せて言った言葉は。
「……あたしのもの」
「……は?」
「あたしのって言ってんの! 聞こえないの!?」
むぎが力一杯叫んだ。ほとんど目が点といった感じで放心している、天下の御堂一哉の世にも珍しい顔が見られたのは、むぎ一人だったが、むぎ本人にはじっ
く
り
観察している心のゆとりなど、ありはしなかった。
「どういうことだ」
「……だって、この時期って、滅多に見られない美味しい有名店のチョコレートが、ずらりとお店に並んでいるんだよ。夏実とチョ
コの下見に言ったときから、食べてみたいのがいっぱいあったんだから。今日なら、お値段下がるのもあるんだよ。『マイセルフバレンタイン』って言葉もある
し、このときが美味しいチョコ買うチャン
スなんだよ!」
ほとんど怒鳴りつけるようにして言ったむぎは、少し息を付いた。一哉の顔を上目遣いに見上げる。
「それに、一哉くんだって悪いんだからね」
「何だ、それは」
「だってさ、バレンタインは忙しいって言ってたじゃない。ほら、前に」
「……ああ。」
一哉の誕生日を楽しみにしているむぎのために、何とかその日を空けようとしていたため、当然その前後に仕事は集中する。バレンタインはどうせ家でできる
からと、特に時間を作ろうとは思わなかった。
「せっかくだから、一緒にチョコ食べたいなと思ったんだけど、プロジェクト立ち上げで急ぎの仕事があるって言ってたから、ダメだろうって思って自分用に
買っ
たの。さっきもチョコ持っていったときも忙しそうだったし、食べようかなと思ったら、一哉くん急に入ってくるんだもん」
一哉は、もう一度手の中の箱を見た。よく見ると、包装のシールが少し剥がされている。
むぎが一哉を見て、くすっと笑った。
「妬いた?」
「……」
「ねえ、ヤキモチ妬いたの?」
「……煩い」
嬉しそうに笑いながら一哉の顔をのぞき込んでくるむぎを、一哉は強く抱きしめた。
「おまえ、まぎらわしいことするなよ」
腕の中のむぎに、一哉が言う。
「なにが?」
「このチョコ、食べるの禁止だ」
「何それ、横暴―。あたしが買ったんだもん。あたしのでしょ」
「煩い。チョコなんて、いつでも買えばいい。これは命令だ」
「むー」
「あんな思いさせられたチョコなんて、食べるなよ」
むぎの頭上から聞こえたその声に、しょうがないなあと笑い、むぎは小さく一哉にキスをした。唇が離れたそのとたん、今度は一哉の唇がむぎを求めてくる。
その後は、二人の甘い時間。
その翌日。いきなり御堂家に美味しいチョコレートを作るので有名な店のパティシエがずらりと列をなして訪れ、望み通りのチョコレートを作ってく
れると言い出したのに驚いたむぎは、改めて自分の恋人の力を思い知ったのだった。