チョコレート・パニック

「あれ、一哉。それ、今年のバレンタインチョコ?」
 瀬伊が借りていた本を手に一哉の部屋のドアを開けたのは、2月14日。バレンタイン当日の夜だった。
「ああ、あいつからもらった」
 一哉の目の前には、とろりとしたチョコの流れ出したフォンダンショコラの一切れが、お皿に置かれている。瀬伊は目をそちらへ向け、首を傾げた。
「ふーん、へんだな」
「なんだ、一宮。何が言いたい。」
「ん? 別にたいしたことじゃないよ。一哉が気にすることじゃない」
「いいから、さっさと言え」
 一哉は、パソコンに目を落としたまま、問答無用で切り込んだ。瀬伊もしょうがないと口を開く。
「むぎちゃん、確かこの間、チョコ買ってたんだよね。ラッピングも綺麗なヤツだったし、てっきり今年は趣向を変えて、ブランドチョコにしてみたのかと思っ ていたんだけど」
「……一宮。また適当なことを言っているんじゃないんだろうな」
 画面から目を上げた一哉は言った。瀬伊は憮然とする。
「何ソレ。僕が嘘言ってるっていうの?」
「おまえの普段の行いを見ていて、信じてもらおうと思うのが間違っているだろう」
「別に信じないならいいけど。でもデパートのバレンタインギフトコーナーから出てきたのは、本当だから。売り場まで行って見ていたわけじゃないから、ホン ト にプレゼントを買っていたかどうかは知らないけどね」
 瀬伊は、そういうとにやりと笑った。
「まあ、僕にはどうでもいいから。もしかしたら、後で誰かにあげるのかもしれないし。僕だったら嬉しいけどね」
「一宮」
「じゃあね、一哉」
 手をひらひらと振りながら、瀬伊はドアを開け、出ていった。一哉は急に味のしなくなったコーヒーを喉に流し込んだ。

 パソコンに向かい、一哉は先ほどの仕事の続きに取りかかろうとした。しかし何度読んでも内容が頭に入らない。緊急を要する決済だというのに、先に進まな い。
「……ああ、くそっ」
 珍しく悪態を付くと、パソコンの電源を乱暴に落として書類を横に積み上げた。むぎが見ると目をつり上げそうな光景になっているが、気に留めずに隣の部屋 へ向かった。
 もう日付が変わる時刻だ。一哉は少し躊躇したが、部屋の中でむぎが動いている気配がする。短くノックをした。
「俺だ。入ってもいいか」
 扉を開けようとすると、
「一哉くん!? ……えと、ちょっと待って」
 ゴトゴトと何かを動かす音と共に、むぎが答える声がした。いつもより声が高い。妙に慌てた口振りに、一哉の眉が寄った。
「開けるぞ」
 返事を待たずに扉を開けると、今まさにむぎがこちらを振り向くところだった。
「なに、一哉くん。随分急だよね」
 笑顔がどことなくぎこちない気がするのは、一哉の気のせいか。すうっと一哉の体温が下がる。
「ほお。バレンタインの夜にわざわざ来てやったご主人様に対して、言うことはそれか。まだ他にもチョコを持っていたりしてな」
「え。それ、どうして……」
 思わずむぎの口からこぼれた言葉が、これは図星だと一哉に教える。一哉は舌打ちしたくなった。
「ふん。持っているんだな。今から誰に持っていくんだ。一宮か」
「な、そんなことしないよ! なに言いがかり付けてんの」
「だが、事実だろうが。どこにあるんだ」
「そんなチョコ、ないよ!めちゃくちゃ言わないで」
 詰め寄った一哉の目の端に、赤と金色が見えた。リボンだ。
 一哉は、机にある本の間に、半ば隠れた箱を見つけた。体中の血が逆流する。一哉の視線を追っ て、む ぎもその箱を認めた。
「あ、これは、その、違うの」
 手を伸ばして箱を取ろうとするむぎより速く、一哉が箱をつかんだ。落ち着いたワインレッドの包装紙に、金色の『St.Valentine Day』の文字が踊っている。
「何が違うんだ」
 乱暴にむぎの腕をつかむと、逃げられないように身体を壁に押しつけた。あごを持ち上げ、噛みつくようなキス。痛みにむぎが身をよじる。
「やっ、一哉く」
「行かせると思っているのか」
「ね、聞いて」
「これは誰のものだ」
 むぎが、顔を上げた。紅潮した頬を見せて言った言葉は。
「……あたしのもの」
「……は?」
「あたしのって言ってんの! 聞こえないの!?」
 むぎが力一杯叫んだ。ほとんど目が点といった感じで放心している、天下の御堂一哉の世にも珍しい顔が見られたのは、むぎ一人だったが、むぎ本人にはじっ く り 観察している心のゆとりなど、ありはしなかった。

「どういうことだ」
「……だって、この時期って、滅多に見られない美味しい有名店のチョコレートが、ずらりとお店に並んでいるんだよ。夏実とチョ コの下見に言ったときから、食べてみたいのがいっぱいあったんだから。今日なら、お値段下がるのもあるんだよ。『マイセルフバレンタイン』って言葉もある し、このときが美味しいチョコ買うチャン スなんだよ!」
 ほとんど怒鳴りつけるようにして言ったむぎは、少し息を付いた。一哉の顔を上目遣いに見上げる。
「それに、一哉くんだって悪いんだからね」
「何だ、それは」
「だってさ、バレンタインは忙しいって言ってたじゃない。ほら、前に」
「……ああ。」
 一哉の誕生日を楽しみにしているむぎのために、何とかその日を空けようとしていたため、当然その前後に仕事は集中する。バレンタインはどうせ家でできる からと、特に時間を作ろうとは思わなかった。
「せっかくだから、一緒にチョコ食べたいなと思ったんだけど、プロジェクト立ち上げで急ぎの仕事があるって言ってたから、ダメだろうって思って自分用に 買っ たの。さっきもチョコ持っていったときも忙しそうだったし、食べようかなと思ったら、一哉くん急に入ってくるんだもん」
 一哉は、もう一度手の中の箱を見た。よく見ると、包装のシールが少し剥がされている。
 むぎが一哉を見て、くすっと笑った。
「妬いた?」
「……」
「ねえ、ヤキモチ妬いたの?」
「……煩い」
 嬉しそうに笑いながら一哉の顔をのぞき込んでくるむぎを、一哉は強く抱きしめた。

「おまえ、まぎらわしいことするなよ」
 腕の中のむぎに、一哉が言う。
「なにが?」
「このチョコ、食べるの禁止だ」
「何それ、横暴―。あたしが買ったんだもん。あたしのでしょ」
「煩い。チョコなんて、いつでも買えばいい。これは命令だ」
「むー」
「あんな思いさせられたチョコなんて、食べるなよ」
 むぎの頭上から聞こえたその声に、しょうがないなあと笑い、むぎは小さく一哉にキスをした。唇が離れたそのとたん、今度は一哉の唇がむぎを求めてくる。

 その後は、二人の甘い時間。


 その翌日。いきなり御堂家に美味しいチョコレートを作るので有名な店のパティシエがずらりと列をなして訪れ、望み通りのチョコレートを作ってく れると言い出したのに驚いたむぎは、改めて自分の恋人の力を思い知ったのだった。





あとがき
 一哉の誕生日にバレンタイン創作。タイミング外しが得意です。
 バレンタインのチョコ売り場は、見たこともない美味しそうなチョコが並ぶので、とても楽しいです。曜日や時間帯を考えないと、エライ目に遭いますが。 (人混み苦手)
 何だか一哉が微妙に情けない気がしますが、実力に裏打ちされた自信を持つ、カッコイイ一哉が大好きです。ホントですよ。(ヘタレも好きだけど ね)
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