「香穂子」
「わっ! いきなり何するんですか、柚木先輩」
放課後の練習室でいきなり後ろから髪の毛をつんと引っぱられ、香穂子が驚いて声を上げた。ついさっきまで練習曲を二人で合わせていたところで、突然の柚
木の行動に面食らった顔をしている。
「おまえ、この髪は自分でまとめているのか」
「え? そうですよ。……どこかおかしいですか?」
「ああ、少しくずれている」
香穂子は慌てて、結んだ髪を触った。
「あー、さっき慌てて直してたんで、失敗しちゃったかな……」
鞄から小さな鏡とブラシを取り出しながら、早口で言う。
「なんだか自分でやると、揃わなかったりゆがんだりして、きれいにまとまらないんですよ。髪も硬いし。気にしているんですけど、なかなか上手くいかなく
て」
言い訳……ですよね、と結ったところを引っぱりながら、香穂子が苦笑する。その顔を見ながら、柚木がすっと手を伸ばした。
「ふうん。……俺が結ってやろうか」
「えっ、柚木先輩が!?」
「なんだ。そんなに驚くことか?」
「驚きますよ! できるんですか、そんなこと」
「自分の身体で試してごらん。……ほら、向こうを向いて」
目の前に香穂子を後ろ向きで座らせると、柚木はヘアゴムを取った。ぱさりと落ちた香穂子の髪をほぐすようにそっと指を通す。
「ちょ、ちょっと、先輩」
「あんまり動くと、おかしな髪型になるよ。いいから、じっとしておいで」
耳元で囁かれた声に、香穂子の耳が真っ赤に染まる。その姿を見て、柚木は楽しげに笑った。香穂子の髪は雅と比べると硬いが、その分ハリがあって、少し癖
のある髪がさらさらと指を滑り落ちていく。その髪を一房取って口づけると、柚木はいつもより少しきつく髪を編み始めた。
「さあ、終わったよ。どう?」
「……すごい。きれい……」
鏡をのぞき込んだ香穂子は、思わずため息をついた。後れ毛を少し残して、両サイドから髪がきっちり編み込まれている。とても香穂子にはできそうもない。
「どこで覚えたんですか、先輩」
「雅に頼まれて、時々ね」
「ああ、雅ちゃん。そっか、先輩、お兄さんですもんね」
ウチの兄にはできないだろうな、などと呟きながら、感心した様子で、手鏡にあちこち写して確かめている。
「先輩って、ヘンなとこで器用ですね」
「ヘンなとこってどういうこと、日野さん?」
「えーっと。口が滑りました…」
これ以上何か言ったら、何されるか分からないと、慌てて香穂子は口をつぐんだ。そういうところも柚木の気に入りの一つである。本人に言うつもりはない
が。
「柚木先輩、自分の髪ではやらないんですか」
「俺がこの髪を編み込むと?」
「だって見てみたいですよ。似合いそうなのに」
さっきのことはもう忘れたとように、ぺろっとそんなことを言う香穂子を見ていた柚木は、にっこり笑いながらその口端をつまんだ。
「そういう余計なことを言う口はコレかな?」
「い、いひゃいいひゃい。もう言いません〜」
「じゃあ、これで許してやるよ」
「ひゃっ…!」
露わになった白い首筋に素早く唇を落とすと、ぱっと香穂子が振り向いた。首から頬へ、瞬く間に朱が広がる。薄紅に染まった頬を満足そうに眺め、
「癖になりそうだな」
柚木はくすりと笑った。
ぱたぱたと軽い足音が響いて、襖がそっと開けられた。
「お兄様、今日もよくって?」
「ああ、髪だね。いいよ。部屋で待っていて」
あれから二週間、また雅が部屋に顔を出した。今日は友達と買い物に行くからと、朝から準備をしている。
「今日は編み込みにしてほしいのだけど、いいかしら?」
「はいはい、お姫様」
苦笑しながら髪に指を通して編み始めると、雅が変な顔をした。
「どうしたの、雅」
「お兄様、いつもと違うのね。……ちょっと痛い、かな?」
「え?」
思いがけない一言に、声が少し上がる。あのとき、指先が香穂子の髪を覚えてしまったのかもしれない。
「うーん………、思い違いかしら」
「そう、だね。……でも、気をつけるよ」
不思議そうな顔の妹に優しく笑いかけると、柚木はいつもよりゆっくりと髪を編み込んでいった。