普段はテンポのよいリズミカルな音楽や流れるような旋律が響く練習棟で、訥々としたつたない音がこぼれていた。
「ミ、ミ、…ミ、レ、……ソ、レ……ド」
やっと最後の音まで辿り着いて、香穂子はほうっと息をついた。
「よし。それじゃ、休憩にしようか」
「はい、ありがとうございました……」
くすくす笑いながら自分を見る柚木に、香穂子が恨めしげな目を向ける。
「疲れているみたいだね」
「それはもう。……なんで、こんなに指って思うように動かないんでしょうか…」
頭では分かっているんだけどなあ…と、自分の指を眺めては、ぶつぶつこぼしている。
「しょうがないだろう。お前はまだ始めたばかりなんだし。そんなに早く弾けるようになるわけがない」
「それはそうなんですけど…。せっかく先輩に教えてもらっているのに、すみません……」
もっともな言葉に、香穂子もしゅんとなる。その姿に、柚木は滅多にない優しい目を向けた。ヴァイオリンだけでなく、ピアノももっと上手くなろう、伸びよ
うとする香穂子の姿勢やその意欲が嬉しいし、その素直さも愛しい。わざわざ大学の授業の合間を縫って、香穂子のもとへ来た甲斐があるというものだ。もっと
も、うつむいていた香穂
子はその顔を見ていないのだが。
「ああそうだ。香穂子」
「なんですか?」
「目を閉じて、口を開けて」
「はい?」
「聞こえなかった? 目を閉じて、口を開けてって言ったんだけど」
香穂子が不審そうに、柚木を見る。
「……なぜですか」
「心外だね。別におかしなことを言っているつもりはないのだけど」
「だって、目を閉じて口開けるなんてヘンですよ」
「今更、少しぐらい顔が変に見えても変わらないよ」
「先輩!」
ひどい物言いに、思わず抗議しかけたが、柚木は相変わらず涼しい顔でこちらを見ている。
「いいから早く」
有無を言わさぬ口振りに負け、渋々といった様子で香穂子は目を閉じると口を少し開けた。
「もう少し開けて。大丈夫。おまえの顔には変わりないから」
「もうっ! それってどういう意味…」
思わず声を上げたそのとき、口の中に何かが入ってきて、香穂子は反射的に口を閉じた。
「!?」
甘い。そして、小さなトゲトゲのあるこの形。トゲトゲが、口の中で優しく溶けていく。
「……金平糖?」
「そう。よくがんばったご褒美に」
そう言って、柚木は甘く笑った。
「あ、この香り。……桃?」
「そう、ご名答」
「こんな金平糖、初めて……」
ほのかに甘い香りが口の中に広がる。ふんわりした甘さに、疲れた指先と心がほぐれていく。
「少しは元気になったようだね」
自然に笑顔になっていたのをからかわれて、香穂子は少し口を尖らせた。
「だって、目を閉じて口を開けろなんて、先輩がおかしな言い方をするから…。それならそうと言ってくれればよかったじゃないですか」
赤くなった顔を隠すように、香穂子は早口で言った。
「別に言わなくたって、おまえが俺を信じていれば不都合はないだろう。それとも、俺がおまえにおかしなことをするとでも?」
以前にも、口を素直に開けたら「おかしな顔だ」と言われたことがあった気がするし、その他小さな意地悪は一回や二回どころではないと思うのだが、反論は
できない。ニヤリと笑う柚木に視線を向けられて、香穂子は思わず目を反らした。
「はい、これはあげるよ」
手を差し出されて、反射的に受け取ったのは、可愛い組みひもが結ばれた小袋だった。桃色の金平糖が薄く透けて見えている。
「…ありがとうございます」
このところ、ヴァイオリンにピアノにと夢中になって練習していたけれど、結果が思うように出なくて焦っていた。きっと、気づいてくれている。その心遣い
が嬉しくて、香穂子は、可愛い小袋を手にそっと包み込んだ。
「香穂ー。古文の宿題、終わった?」
翌日の昼休み、天羽が小走りで香穂子のところへやってきた。脇にノートを抱えている。
「なんとか、かな。最後がちょっと自信なくて」
「私もなんだ。今日当たりそうなのに、マズいんだよね……」
二人でノートを見比べて唸っていると、後ろから聞き慣れた声がした。
「どうしたの、二人とも」
「あ、加地くん。ちょっと香穂と宿題チェックしてるところ。なんか現代訳が難しくってさ。加地くんはできた?」
「うん、一応。よかったら、見る?」
思わぬ申し出に、香穂子と天羽はノートを差し出す加地を見上げて笑った。
「助かる! 大いに参考にさせてもらおう。ね、香穂」
「ホントに。いいかな? 加地くん」
「もちろん。二人の役に立つなら喜んで」
三人で互いの訳文を見せ合い、一通り書き上げたところで、不意に思い立って、香穂子は鞄を開けた。
「二人とも。よかったら、これ、食べる?」
袋から取り出した小さな粒を、天羽と加地がのぞき込んだ。
「……金平糖?」
「へえ、可愛いな。日野さんが買ったの?」
「ううん、柚木先輩にもらった物なんだけど、桃の味がするの。どうかな」
二人とも興味津々という顔で、口の中に入れた。天羽が感嘆の声を上げる。
「ちょっと、香穂。すごく美味しいじゃない!」
「本当だ。これ、人工の物じゃない、よね。……天然の桃の味?」
「ね、美味しいでしょ? 私もすごく気に入ったんだ」
幸せそうに笑う香穂子に、ふと加地が何かを言いかけて、そのまま口を閉じた。天羽が怪訝そうな顔を向ける。
「加地くん、どうかした?」
「え、…いや。たいしたことじゃないよ」
続きを聞こうと、天羽が口を開きかけた途端、香穂子が慌てて立ち上がった。
「うわっ、今日まだ練習室の予約を取っていなかったんだ。ごめん、ちょっと行ってくる。菜美、加地くん、またね!」
バタバタと去っていく香穂子を見送りながら、天羽がもう一度加地を見た。
「それで? もう香穂はいないから言ってもいいんじゃない?」
「うーん、ちょっと思い出したことがあっただけ。…金平糖の作り方」
「へ?」
「金平糖って作り方がすごく難しくて、普通は天然素材の味を付けることができないらしいんだ。できる店は、確か日本で一軒しかないんだよね」
「え。……それって」
「おーい、加地。ちょっと来てくれよー」
天羽が目を見開いたとき、ちょっと離れたところから、加地を呼ぶ声がした。
「分かった、今行くよ。それじゃ、またね、天羽さん」
振り返って、軽く手を挙げた加地が歩いていくのを見送って、天羽は軽く苦笑した。
「はあ、さすが柚木さん。……香穂ってば、気づいているのかな」
吐く息に、まだ仄かに桃の香りが残っていた。