それっきりだった。
柚木とクリスマスの話をしようと思っていたが、当の柚木から遮られて、途切れてしてしまった。それからでも話す時間はあると思っていたが、毎日の登下校
が
別々になると、柚木と香穂子が会って話す時間は、ないも同然だった。
「あれから、三週間か……」
引退したのに、毎日のようにオケ部に顔を出している火原はともかく、柚木に限らず、三年生の姿自体見かけなくなってきた。三年は受験のため、学校へ来る
時
間も減っている。今後ますます会える時間は少なくなるだろう。
分かってはいたけど。
予想はしていたが、実際にこうなってみると、精神的にかなりきつい。
「まいったなあ……」
「なーにが?」
「菜美!」
天羽菜美が、後ろからひょっこり顔を出した。
「どしたの。こんなところでため息ついたりして。……ああ、柚木さんか」
「何で分かるの!?」
「アンタが悩むなんて、あの人のこと以外にないじゃん。それで?」
「ん〜、たいしたこと、ないよ。もう、12月だなって」
天羽には、柚木とつき合っていることは話してあるが、詳しい事情までは伝えていない。だから、香穂子もそれ以上話すつもりはなかった。聡い彼女だから、
気
づいていることもあるだろうけど。
「ああ、柚木さん。…そっか。卒業まで、もうちょっとだもんね。」
それ以上聞いてこない彼女の優しさが嬉しい。香穂子が笑うと、思いついたように、天羽が話を続けた。
「でも、まだ12月だよ。これから、まだまだイベントあるじゃない。クリスマスとか、バレンタインとかさ」
「ん、……そうだね」
歯切れの悪い返事に、天羽は少し首を傾げた。
最近、香穂子は元気がない。そんな彼女を元気づけようと、わざわざ彼女を捜していたことを思い出した天羽は、話を
続けた。
「あのね。さっきエントランスで、火原先輩を見たよ。彼がいるなら、柚木さんも来てるんじゃない?」
「え、ホント? …そっか。菜美、ありがと!」
柚木がいるなら、少しでも会いたい。彼に会えなくても、火原なら何か聞いているかもしれないし、そうでなくても、3年生の今後の予定が聞ける。香穂子
は、エントランスへ向けて駆けだした。
「え、もうですか?」
「うん、ゴメンよ。ついさっき、『急ぎの用があるから』って、行っちゃって」
勢い込んできたのに、柚木はもう帰った後だった。同じく帰ろうとしていた火原をようやく捕まえて聞いてみたが、次にいつ彼が学校へ来るかは知らないとの
こ
と。
「本当にゴメン。柚木のこと、もうちょっと引き留めておけばよかったよね。俺、気が利かなくて……」
「あ、先輩のせいじゃありませんよ。こっちこそ、ごめんなさい」
あまりにしょんぼりしてしまった香穂子を見て、申し訳なくなったのだろう。何度も繰り返し謝る火原に、無理矢理笑いかけて、香穂子は、もう一度教室の方
へ
戻っていった。
先輩、もう会えないのかな。
不安が募る。
柚木とは、コンクールが終わってからつき合いだした。家での事情をいろいろ背負っている彼との恋愛は、始まったときから、長くは続かないかもし
れないと感じてはいた。
だが漠然と、それはもっと先だと思っていたのに。もう、そのときなのだろうか。
でも、先輩は「必ず会う」と言ってくれた。
その言葉は、信じたい。
香穂子は空を見上げた。冬特有の白っぽい空が、いつも以上に寒く思えた。
「香穂。クリスマス・イブって、空いてる? さち達と『冬休みおめでとうパーティー』するんだ。駅前でカラオケしてね、その後、香織の家へなだ
れ込む
んだけど。どう?」
「え、あ、そうだね……」
「…あー、やっぱ悪かった。こんなときに誘っちゃダメだよね。すっごく盛り上がりそうなメンツだし、あんたも、来てみると元気になれるかな〜なんて、
思ったんだけど」
表情が曇る香穂子を見て、慌てて天羽が言い添える。
このところ、めっきり落ち込んでいる香穂子を見て、元気づけようとしてくれたんだと分かり、香穂子も笑った。
「あはは。気を遣わせちゃったね。ごめん、菜美。大丈夫だよ」
「ホント? なーんか気になっちゃってさ。余計なお世話とは、思ってるんだけどね」
「うん。先輩と約束してるから」
嘘。私がそう思いたいだけだ。
そう言ってしまいたくなるが、言葉にしてしまえば、もう心が壊れてしまう。
香穂子はぎゅっと目を閉じて、そのことを頭から追い出し、考えないようにした。
ふう。吐いた息が白い。
菜美と別れてエントランスまで来た香穂子は、ため息をついた。
先輩に会えないまま、ついにクリスマス・イブは明後日になってしまった。予定だけは空けてあるのに。
ほとんどの生徒が帰ってしまったようで、もう人影はない。たまに遠くから足音や話し声らしき音が微かに聞こえてくるだけで、薄暗い構内に、自分の足音が
や
けに響く。
「パーティー、楽しそうだったな……」
「へえ、何の?」
後ろから聞こえた声に、息が止まった。最近は聞きたくても聞けない声。頭の中でしか聞いていない声。
振り向くのが怖い。前を見たまま、香穂子は声を絞り出した。
「柚木、先輩……?」
「当たり前だろう。他に誰がいるんだ?」
あまりに彼らしい言葉に、すごい勢いで香穂子は振り向いた。
「先輩!」
「ああ、久しぶりだな」
音楽科の白い制服に、手にコートを持った柚木は、前と全く変わりない様子でそこに立っていた。
「ほ、本当に久しぶりですよ! 今までずっと何の連絡もなくて。何かあったのかとか、いろいろすっごく心配して。それで…」
堰を切ったように話し出した香穂子を制して、柚木が話し出した。
「ああ、分かってる。そうだな、心配かけた。……それで、さっき言ってたパーティーって、なんだ」
「え? ああ、菜美がクリスマス・イブにパーティーやるから来ないかって。断りましたけど」
「どうして。行けばいいじゃないか」
その言葉に、香穂子の中の何かが、ぷつんと切れた。
「……どうしてって、どういうことですか!」
クリスマスには会ってくれると思ってた。
忙しかったり、いろんなしがらみがあったりして大変だけど、香穂子のことは、ちゃんと考えていてくれるって。だか
ら会えなくても、連絡がなくても我慢したのだ。なのに。
「クリスマスは会えるって、そう言ってたのに。それをずっと信じていたのに。せ、先輩は、そんなこと、もう忘れていたんですね。私が、勘違いしてい
ただけで……」
悔しさが、言葉に、声に滲む。視界が霞んできた。
「会いたいって、ずっと思ってたのに……。楽しみだったのは私だけで、先輩はそんなの、とっくに忘れていたんですね…!」
「おまえ……、本気でそんなこと、思ってるのか」
え、と顔を上げた途端、熱い腕にとらわれた。その容赦ない力に驚く。
「先輩?」
「この俺が、本気でおまえのことを忘れているとでも? それほど、信じられないのか?」
声のトーンがいつもと違う。少し低く、震える声は、内心の感情を伝えてくる。
色に例えるなら紅。熱い、その想い。
「だって、今だって、『クリスマスは他へ行けばいい』って! 『会える』って、前に言っていたじゃないですか。もう一月近く、何も教えてもらえないままだ
し……」
香穂子は腕の中でもがき、悔し紛れに柚木の胸を叩いた。この一ヶ月間の不安をぶつけるように。
それを感じて、柚木は香穂子の背中を撫でた。
「まあ、俺もおまえに伝えてやれなかったから。……この時間を作るために、ちょっと手一杯だったんだよ。悪かったな」
強く抱きしめられ、繰り返し背中を撫でる手の動きに、香穂子の心が、ゆっくりと落ち着きを取り戻していく。
しばらく経って香穂子は、ようやく柚木の顔
を見上げることができた。
「ああ、やっと落ち着いたか」
「え、ええ。……えと、怒鳴ったりして、すみませんでした」
さっきまでの自分が恥ずかしくて、とりあえず謝ってしまう。取り立てて悪いことをしたつもりはないのだけど。そんな香穂子を見て、柚木はくすりと笑っ
た。
「いや、いいけど。だが、おまえが何を怒っているのかは知らないが、俺は約束を破った覚えはないぜ?」
「え? どういうことですか。もしかして、前に言ったこと自体がなかったことになってるとか……」
「バーカ。俺は、おまえほど記憶力が悪くない」
「じゃあ、やっぱりおかしいじゃないですか」
「おまえ、自分で言っていたことを思い出してみろ。約束だと言っていたこと」
香穂子は記憶を辿った。ずっと信じていた言葉。
「クリスマスには、会えるって……」
「ああ。クリスマスには会える」
「へ?」
「クリスマスは、何日だ」
「12月24日……ああっ!?」
「そう。クリスマスは25日だ。24日はクリスマス・イブ。なあ、香穂子」
にっこり。眩しい笑顔の柚木に、香穂子は青ざめた。
ということは、私が思いっきり勘違いしてたってこと……!?
「……先輩、あの」
「何?」
自分を見下ろしながら、にこにこ笑っている柚木に、妙な圧迫感を感じる。
香穂子は思いきり頭を下げた。
「ごめんなさい。言い過ぎました!」
「いや、構わないさ。 いいモノを見せてもらったから」
「え?」
「お前の気持ち、確かに見せてもらったよ」
俺を熱くさせる言葉だった。そう言って、柚木は香穂子の髪を一房取って軽く口づける。
その仕草に香穂子は真っ赤になった。
「せ、先輩!」
「ただ、疑われたのは、心外だけどね? 香穂子」
「っ、それは、その、つい……。本当に、ごめんなさい」
彼のからかうような物言いに、だんだん語尾が小さくなる。たまらず、香穂子は顔を伏せた。
どうしよう。顔が上げられない。
「……悪かった」
小さな声で言われた言葉に、思わず顔を上げると、そこには滅多に見られない優しい眼差しの柚木がいた。そっと手をのばして、香穂子の頬を包み込む。
「今回、俺がおまえを不安な顔にさせていたな」
目を伏せた柚木が、苦く笑う。
「こちらから、どうしても連絡が取れなかった。このところ、おばあさまのチェックが厳しくなっていたんだ。今、あの人の機嫌を損ねるのは得策じゃないか
ら、おまえを遠ざけていたんだが、おまえにはそれを言ってやれなかったから。……本当に、悪かったな。辛い思いをさせて」
その言葉に、今度こそ香穂子の心がほどけた。
見る見るうちに、熱い涙が溜まっていく。そして、つうっと頬を伝った雫を、柚木の長い指がそっとぬぐう。ぽろぽろ涙を
こぼしながら、香穂子は、今までどうしても聞けなかった問いを、口にした。
「まだ、……いいですか。一緒にいても?」
「大丈夫だ。おまえは心配しなくていい。……ああ、クリスマスは、しっかり空けとけよ。イブは遊んでこればいいから」
返された笑みとその言葉に、涙の光る顔で、香穂子が笑う。
「も〜、言わないでください。じゃあ、菜美達とたくさん遊んできますよ」
「ああ。ただ早く帰ってこいよ? 次の日は遅くなるかもしれないし」
「え? どど、どういうことですか?」
「さあな。自分で考えてみろ。……くくっ、冗談だ」
「ホントですかー!?」
薄暗くなった構内に、笑い声が重なり合って響いていた。
「久しぶりに送ってやる」との柚木の言葉で、二人は車に乗り込んだ。
いつもの運転手が微かに笑って、香穂子を迎える。
声を抑え気味にしながらも、香
穂子はいつもよりはしゃいでいて。そんな彼女を、柚木は笑いながら見ていた。
「まだいいですか」なんて、この先言わなくてもいいようにしてやるから。
彼の呟きは、口の中で消えた。