「おや、真朱先生。世界史は小テストでしたか」
生徒達の答案を採点していると、横から隣のクラスの教師が声を掛けてきた。
「ええ。どうしても、人物名など暗記することが多いので、少しでも書かせることで覚えてもらおうかと」
「数学や物理みたいに公式を使って導き出すのとは違って、歴史は基本的に暗記物だもんなあ」
俺も苦手だったよと笑う教師に笑い返す。
「特に、東アジアのところは漢字も多いから、漢字の書き間違いにも気を遣わなくちゃいけないんで」
「そうだよなあ。コイツも分からなかったんだろうなあ」
答案で所々白く抜けているところにちらりと目をやる。
生徒達が書いている答えは、漢字を間違えていることも多い。そのままでは入試にも影響が出るため、きちんと見なくてはならない。白原のように、整った字
で完璧に書かれている方がまれだ。
分からないところは潔く抜かしている紺青の丸い字はともかく、何とか分かる範囲で書こうと努力している烏羽のどこか崩れた字もしっかり見ていると、時間
があっという間に過ぎていく。
そして、目に飛びこんでくる、決して見誤ることのない彼女の文字。
『依籐亜貴』と落ち着いた字で丁寧に書かれた名前を見るだけで、あふれそうになる想いを押さえつけて事務的に丸を付けていく。
次々とペンを滑らせていると、ふとおかしなことに気づいた。
問8の回答だけ、少し右にずれている……?
問7まで、そして問9からもきちんと左詰に書かれているのに、問8だけ、一文字分、右に寄っているのだ。
「字を抜かしているわけじゃないよな…?」
朱子学を大成させた人物は誰かという質問に、きちんと朱熹と書けている。字を間違ったわけでもなさそうだ。
首をひねりながら採点を続けようとペンを走らせかけたとき、一つ上の欄に書いてある答えが目に入った。
問い7…女真族
「……下の答えは『朱熹』、だから」
縦に読むと
『真朱』
「……っ!」
顔が熱くなるのを自覚する。誰もいなくてよかった。この顔を見られたら、さすがに不審に思われるだろう。
都合の良い思い違いかもしれない。自分たちはもうただの教師と生徒に戻ったはずだ。しかし、テストの答案は自分しか見られないわけで。
「やられた……」
誰にも気づかれないように、でも、自分の気持ちをそっと伝えられるように、密かなメッセージを忍ばせた彼女。
そんな彼女が可愛くて愛おしくて仕方ない。
以前よりずっと気持ちは強くなっている。
だが、それを表すわけにはいかない。自分の気の向くまま軽々しく近づいた結果、周りからの冷たい視線に晒させて、彼女をあんなに傷つけた。今はもう想い
の欠片でも、気づかれるわけにはいかない。
彼女を、守りたい。
でも、必死に想いを伝えてくれる彼女に俺は何も返せない。そんな自分が悔しくてもどかしくて嫌になる。
「ふう……」
乱れた気持ちを立て直そうと深呼吸した。
気を取り直して答案用紙に目を戻すと、ペン先から赤インクが滲み、小さな丸い染みができていた。動揺して手が止まっていたらしい。
「うわ、ヤバ…。目立つか、これ」
ごまかそうにも、下手に修正液でも付けると余計に目立ちそうだ。
仕方がないので、素知らぬ顔をして続きからペンを滑らせると、染みが小さかったせいか、よく見ないと気づかない程度になった。他のヤツらに気づかれない
といいが。
でも、それでも。彼女が俺を思ってくれているなら。
願わくば、この滲みから、あふれる想いが伝わりますように。
目を閉じて、俺は密かに祈った。