パチン。小気味よい音が響いた。

「あっ、くそ。逃げられちまった」
 麻生は叩いた腕を残念そうに見つめると、ぽりぽりかいた。
「なんだ、羽倉。突然」
 一哉が新聞から目を上げることなく聞いた。
「蚊だよ。急に耳元でうなり声がしたと思ったら、喰われたんだよ」
「こんな時期にかい? もう十月だろう」
「羽倉、なんか見間違えたんじゃない?」
「ンなこと言っても、喰われたんだからいんだろーよ」
 依織と瀬伊の言葉に言い返すと、麻生はもう一度刺された腕を見た。そこは既に小さくぷっくりと膨れている。
「あーっ、チクショウ。こっちも刺されてるじゃねえか」
「だいじょうぶ? あさきおにいちゃん」
 こむぎが麻生の腕をのぞき込んだ。
「かいかいのおくすり、むぎ、つけてあげようか?」
「いや、大丈夫だ。ありがとな、ちびむぎ」
 心配そうに顔を見上げるこむぎの頭をくしゃくしゃとなでた。
「でも、麻生が刺されたということは、こむぎちゃんも刺されるかもしれないね」
「そうだな、蚊は炭酸ガスに寄ってくる。子どもの方が二酸化炭素を多く排出しているからな」
「ああ、だから僕たちじゃなくって、羽倉なのか」
 一哉の言葉に瀬伊がおもしろそうに笑った。
「どういう意味だよ」
「言葉の通りだよ。ああ、それに羽倉って血の気多そうだしね。蚊も分かってるんだよ」
「O型は刺されやすいとも言うな」
「蚊に好かれるんだね、麻生は」
「なんだよ、それ!」
 次々とかけられる言葉に麻生が憮然とする。そんなやりとりを困ったような顔で見ていたこむぎが、麻生の服を引っぱった。
「あ? ちびむぎ、どした?」
 目の前にしゃがみ込んだ麻生に向かって、こむぎが言った。

「おにいちゃんはね、おいしいんだよ」

「は?」
 思いもよらなかった言葉に、麻生は面食らった。
「あのね、カもおいしいから、ぢゅーっといっぱいちをすうの。おいしいおいしいって」
「お、おい?」
「おにいちゃんのち、すっごくいいあじなの。ね、すごいでしょ? よかったねー、あさきおにいちゃん」
「……ちびむぎ、あのな。…えーと………、そ、だな」
 小さなこぶしをぎゅっと握って懸命に話すこむぎに返す言葉を見つけられず、麻生は顔を引きつらせてうなずき、後ろで見ていた三人は、たまらずに腹を抱え て 笑い出した。
「プッ、アハハハッ! そうだよね。羽倉なら美味しいんじゃない?」
「ククッ、…確かに。あれだけ血の気も多いんだし、美味いだろう」
「アツイ血を持ってるだろうからね」

「おにいちゃんたち、なにをわらっているの? …むぎ、なにかへんなこといったのかな」
 まだ笑い続けている一哉達を見て、こむぎは不思議そうに首を傾げている。笑いすぎだ、と麻生は舌打ちしたくなった。
「いいや。あいつらがヘンなんだろうよ。仕方ねえ、なんか虫さされの薬でも……どした」
 こむぎがヘンな顔をして黙っている。麻生がしゃがんで声を掛けるとこむぎが腕を差し出した。
「おにいちゃん、ここ、かゆい。…むぎもさされちゃったみたい」
「何? どれ、見せてみろ」
 柔らかな腕をそっと持ち上げてみると、二の腕の裏が赤くぷっくりと膨れている。
「ああ、ホントだな」
「やっぱり、カ? おにいちゃんとおんなじ?」
「そうだな。蚊だな。ってことは、ちびむぎ、おまえもうまいんだ。食べたくなるくらい」
「えーっ。むぎ、おいしくないよ」
「そんなことないぜ。ちびむぎは可愛いからな。ちゃーんとうまいと思うぞ」
「ほんと? えへへ」
 にっこり笑った天使の顔につられて、麻生も笑った。その横に。

「……羽倉、やーらしい」

 突然瀬伊が現れた。いつの間にか笑い止めた依織と一哉もこちらをじっと睨んでる。
「信じらんない。羽倉ってそういうシュミがあったんだ」
「羽倉。おまえ、犯罪を犯す気か」
「手を出したら、俺が承知しないよ。…分かってるね、麻生」
「な、オマエら何言ってんだよ。んなわけねえだろ」
 迫ってくる三人の迫力に押されて、麻生は思わず一歩後ずさった。
「それが分かればいいのだけれど。ねえ?」
「さっきのオマエの言葉からは、そんな清らかさ、微塵も感じ取れなかったな」
「何わけわかんねぇこと言ってんだよ。考えすぎだっつーの」

「おにいちゃん」
 焦る麻生のそばに、とてとてとこむぎが寄っていった。
「むぎ、おいしいんだよね。おにいちゃんも、食べたくなる?」
 無邪気な言葉は、爆弾にも等しかった。

「…麻生。ちょっと話そうか」
「ああ、この場所を空けてやる」
「こむぎちゃん、こんなところにいたら大変だよ。僕とあっちで遊ぼ?」
「うん。むぎ、せいくんとあそぶー」
 さりげなく手を引いて、瀬伊がこむぎを連れていく。救いの女神がいなくなり、残された麻生は、はっきりと己の不利を悟った。
「お、おい、アイツの方が危ねえだろ。放っといていいのかよ。だから、おい!……人の話を聞けーーーーー!!」

 

 麻生の絶叫がこだましたが、防音完備の御堂邸では、何一つ余計な物音はもれなかったそうである――。








あとがき
 こむぎ話第10弾。麻生です。ちょ、麻生、可哀想すぎるーーー! 自分で書いておいてなんですが、麻生の不憫さに思わず涙が出そうでした。二人だけな ら、ものすごくほのぼのしてたのに、彼らがいたばっかりに…! ちなみに依織でも考えてみましたが、いきなり路線がほのぼのからアヤしい方向へ行きかけ て、断念しました。そんなのこむぎじゃないよ!
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