虫の声

「せいくん、せいくん、おそといこ?」
 こむぎが瀬伊のシャツの裾を引っ張った。もう辺りは薄暗い。
「もう遅いよ? 遊びに行くのは、また明日にしようよ」
「ううん、あそびにいくんじゃないよ。すごいことなの。せいくんにおしえてあげる」
 一生懸命に瀬伊に訴えるこむぎを見て、瀬伊も折れた。自分が一緒にいるし、少しくらい出かけてもいいか。
「しょうがないなあ。で、こむぎちゃんはどこへ行きたいの?」
「あのね、おにわなの」
 庭? 瀬伊は首を傾げた。庭に何か変わったものでもあっただろうか。不思議に思いながら、瀬伊はこむぎに引っ張られるようにして庭へ出た。

「あれ? ない」
 外に出て、こむぎは辺りをきょろきょろ見回した。どうも思っていた物がないらしい。
 瀬伊も一緒にぐるりと辺りを見回した。目に映るのは、代わり映えのし な い景色。いつもと特に変わった様子もない。
「こむぎちゃん。何かなくなっちゃったの?」
「うん。さっきまでたくさんあったのに」
 たくさん? ますます訳が分からない。さっぱり分からずに続きを聞いてみた。しかし、周りに気を取られているこむぎの話は、全く要領を得ない。
「ねえ、こむぎちゃん。もう遅いから、今晩はもう家に入ろう?」
「や。ちゃんときいたもん。うそじゃないもん!」
「聞いた?」
 瀬伊が聞き返そうとすると、
「せいくん。しーっ」
 こむぎは、口に指を当てて瀬伊を咎めた。よく分からないが、瀬伊はこむぎの横に並んで座り、そのまま一緒に耳を澄ました。

「あ。これ!」
 こむぎが小さく声を上げた。不意に聞こえてきたのは、鈴を転がすような柔らかな音色。一つ聞こえてきたその音色に、次の音が重なり合う。
「……ああ、虫の声」
「ね?せいくん、きれいでしょ?」
 囁くような声を交わし合う。いつも早い時間に家に入ってしまうこむぎは、これほどの虫の音を初めて聞いたようだ。
「うん、すごい」
「えへへ、むぎもそうおもったの。いいこえだねー。あ、むぎね、これがすき」
「この声?」
「さいしょのも、あとからのもすき。でもね、こっちのがいいの」
「この声はスズムシ……だったかな。こむぎちゃん、いい耳してるね」
 虫の声を聴き分けて話すこむぎに、瀬伊は驚いた。
 家政婦仕事をしているとき、気分がいいとむぎはよく歌っていた。そんなとき、いつも少し音を外れてしま うのを聴 いて、瀬伊はよくからかっていたものだけど、瀬伊の弾く曲は、直感的に豊かなイメージで聴き取っていた。きっともともと耳はいいのだろうと思っていたが、 小さな頃から、 その要素があったということか。

「くしゅん!」
 しばらく虫の音に浸っていた二人だったが、くしゃみの後、寒そうに少し体を震わせたこむぎを見て、瀬伊が立ち上がった。
「さあ、こむぎちゃん。中へ入ろう?」
「やだ! まだきくもん」
「だーめ。風邪引いちゃうといけないからね。代わりに、僕が後でピアノを弾いてあげるよ」
「ホント!? じゃあ、中へ入る」
 機嫌良く立ち上がったこむぎを中へ入れて、瀬伊はもう一度庭を見回して、耳を澄ませた。ピアノでこの音を再現するのは、ちょっと難しいけど楽しそうだ。 早 速浮かんだ曲を頭の中でさらってみる。うん、いい感じ。カノンのように音が重なり、広がっていく。

 今夜お風呂から上がったら、一番にこむぎに聴かせてあげよう。大好きな虫たちの合唱が彼女の耳に届くだろうか。どんな顔で演奏を聴いてくれる かと想像するだけでも楽しくなる。
「せいくん、はやくー!」
「うん、今行くよ」
笑いながら扉を開けた瀬伊は、こむぎの待つリビングへと入っていった。

 その夜、弾んだ笑い声に重なって、虫たちと競演するようなピアノの音が、窓から外にこぼれ落ちていた。






あとがき
 久しぶりのこむぎ話です。こむぎは季節ネタが似合うよ! 虫の声って、いいですね。ふと気づくと「ああ、秋が来たなあ」と感じて嬉しくなります。瀬伊ほ ど 耳がいいなら、この虫の声も音楽として聞こえているんだろうなあ。そのまま、ドレミで聞こえているのかも!? どんな音楽ができあがったのか、私もこむぎ と 一緒に聴いてみたいよ〜!
back to index
template : A Moveable Feast