「麻生くん、麻生くん!」
嬉しそうなむぎの声が玄関から聞こえてきた。トタトタと軽快に走ってくる音に、キッチンで牛乳を飲もうとしていた麻生は、思わずドアを見た。
「ねえ、麻生くん。プールだよ!」
「はあ?なんだ、一体」
「じゃーん!もらっちゃったの、招待券」
むぎが手にしていたのは、最近話題のプールをメインとしたアミューズメントパークのチケット。大きなウォータースライダーもついた大小7つものプールの
周
りには、小さめとはいえ遊園地のような乗り物も併設され、カップルを中心に大人気だ。いつも取っている新聞店からのもらい物らしい。
「麻生くんと二人で泳ぎに行くの、初めてだね。えへへ、楽しみだなあ」
にこにこ満面の笑みで言うむぎに、麻生は思わず聞いた。
「お、おい。行くつもり、なのか?」
「へ? もちろんそうだよ。行かないの?」
きょとんとした顔でむぎが尋ねる。てっきり大喜びで一緒に行ってくれると思っていたらしい。
「麻生くん、泳げなかったっけ?」
「んなことねーよ」
「じゃ、何で?」
心底不思議そうな顔をしたむぎに聞かれ、麻生は思わず口ごもった。
「え、いや。だってよ……」
麻生とて、別に泳ぐことやプールが嫌いなわけではない。むしろ大好きだ。
問題はむぎの水着姿だった。
みんなで海へも川へも行ったが、麻生は未だにむぎの水着姿をまともに見られなかった。
いつか海でやったバーベキューは、泳ぐより浜辺で騒ぐことが
中心だったし、御堂家の同居人達5人で
別荘へ行ったときも、一緒に川遊びをしたというのに彼女の方をまともに見られず、昼飯の支度に専念する振りをしてやりすごしていた。そのあげく、むぎが倒
れたときも触れるのに躊躇し、依織にむぎを抱き上げられていたくらいだ。
むぎとつき合うようになってからも、そういった格好が苦手なことには変わりない。
「お前、可愛すぎんだよ……」
口の中で呟いた言葉は、当然むぎには届かない。
もごもご言いづらそうにしている麻生を見て、むぎも悪いことを聞いたと思ったらしい。譲歩案を出してきた。
「あの、ダメならいいよ。じゃあ、瀬伊くん達に聞いてみる」
「ぜってー、ダメ」
即答だ。麻生の脳裏にラ・プリンスと呼ばれる3人がよぎる。むぎにベタ惚れで、麻生とつき合うことになった今でもむぎを諦めていない彼らが、こんな誘い
を
聞いてどう出るかは火を見るより明らかである。
「じゃあ、夏実と行ってくる」
「それも、ダメだ」
夏実達と行くとはいえ、他の男にむぎの水着姿を見られることには変わりない。ましてや女ばかりのグループでは、ナンパされるのがオチだ。
「じゃあ、行けないじゃん!」
「何も行かねえって言ってねえだろ」
「え? じゃあ」
「ああ、一緒に行ってやるよ」
「やったー! 麻生くん、ありがと!!」
麻生だって男の子。苦手だというだけで、可愛い恋人の水着姿を見たくないわけではない。飛び上がって喜ぶむぎを見ながら、一緒に出かけるその日を思って
心
が躍り出すのは止められなかった。
待ちに待ったデートの日。朝から見事な快晴で、前日からウキウキしていたむぎと二人で、そのプールへ出かけてみた。
「うわ〜、ひろーい!」
「すげえ人だな……」
初めて来た人の誰もがこのどちらかの感想を持つだろう。広々とした海のようなプールには、人工的に作られた浜辺らしい場所や港が見える。手元のパンフ
レットをのぞくと、
川のような細いところは流れるプールのようだ。ちょっと奥まったところには、島というか山のようなものがあり、その壁に沿ってぐるりとスライダーのコース
が作られている。
そして、プール内はもちろん、プールサイドもびっしり人で埋め尽くされていた。
「どっから行こうか、麻生くん」
その言葉で気を取り直し、麻生は目を輝かしているむぎとともに、少しでも空いたスペースを探しにプールサイドを歩き始めた。
何とか場所を確保してタオルやバッグを置くと、早速二人はプールへ入っていった。
「うっわー、水温かいよ!」
「あ、ああ。……こんだけ天気いいからな」
微妙に目をそらしながら麻生が答える。麻生が制止する間もなくむぎはパーカーを脱いでしまったので、そのまま横を歩いているが、ほっそりした首筋やオレ
ン
ジの水着からのぞく胸元など、つい目がそちらへ行きそうになる。
我慢だ。我慢しろ、俺!
早く水の中へ入ってしまった方がいい。そう思った麻生は、むぎの手を引いて、ずんずんプールの中へと向かった。
「ねえねえ、ああいうのって気持ちよさそうだね」
「おっ、ホントだな。借りてくっか」
ひとしきり泳いだあと、大きな浮き輪に乗ったり、シャチやカメのフロートにまたがってたりして遊んでいる人を見て、自分たちも浮き輪を借りることにし
た。それほど荷物を増やすつも
りはなかったので浮き輪など持ってこなかったのだが、やはり見ていると使いたくなる。波の出るプールで遊ぼうと二人は大きめの浮き輪を借り、むぎが上
に乗ることにして、二人は水の中へ入っていた。
プール内は大混雑だった。ここはこの施設のメインプールらしく、一番広くて人も多い。波をより楽しめる奥の方は、同じように浮き輪やエアマットに乗った
カップルでぎゅうぎゅう詰めだ。離れようとしても、波に揺られてだんだん奥へ押しやられていく。
「くっそ、すげえ人だな」
「ねえ、麻生くん。大丈夫?」
「……っ、急にさわんなって」
むぎが心配そうな顔で、浮き輪を押さえている麻生の肩に触れると、麻生はぱっと身体を引いた。
「何よ、それ。心配してるのに」
「あー、わりい、その……」
ふくれるむぎに、麻生は無理矢理笑いかけた。芋洗いとしかいいようがない中で、むぎとの密着度が上がっている。意識しないようにしても、なめらかな肌や
す
んなり伸びた脚がここぞとばかり麻生を刺激する。周りからもぎゅうぎゅう押され、触れることなしでは混雑から守ることもできない。
「もー、麻生くん、ヘンだよ。ちゃんとこっちを見て」
「んなこと、無理だって」
「どうして無理なのよ」
さすがのむぎも、麻生の様子がおかしいことに気づいた。麻生の腕をつかもうと手を伸ばす。
「うわっ、何すんだよ」
「麻生くんがこっちを向いてくれないからでしょ!」
焦れたむぎが両手で麻生の腕にぎゅっとしがみついてきた。思わず麻生が体を引くと、驚いたむぎは、腕を伸ばしたままの不自然な形で固まった。
そのとき一際
大
きな波が来た。浮き輪がぐらりと傾き、バランスを崩したむぎは水の中へ投げ出されていた。
「むぎ!?」
慌てて麻生が腕を伸ばす。しゃにむに人をかき分け、むぎの腕をつかんで身体を引き上げて、力を込めて抱きしめた。
「むぎ、大丈夫か? 大丈夫だな。……よかった」
「うん、大丈夫だよ。プールに落ちたくらいで、麻生くんってば、大げさすぎ」
むぎも麻生の胸に顔をこすりつける。
「それに、やっと麻生くん、こっちを見てくれた」
「……え?」
ふと自分の腕を見ると、水着姿のむぎを思いっきり抱きしめている。我に返った麻生は慌ててむぎを離そうとしたが、むぎ自身が麻生にぎゅっと抱きついてい
て
離れない。
「……おまっ、離れろよ!」
「やだ! 麻生くん、あたしを見てくれないんだもん」
腕の力はますます強くなる。
「ねえ、あたし、何かした? だから怒ってるの?」
「違う! そんなんじゃねえっ」
「じゃあ、何!」
「……見れねえんだって」
「え?」
「おまえ可愛すぎて、マジヤバい」
早口でそれだけ言って麻生は横を向いた。耳まで真っ赤になってる自覚がある。お揃いでむぎの顔まで朱に染まった。
「えっ? あ……ありがと」
「……でも、今ならいっか」
不思議そうな顔をするむぎをもう一度浮き輪に乗せて、麻生は背中からその柔らかな身体を抱きしめた。今度はむぎが慌てている。
「な、何? 麻生くん」
「ん? いや、おまえって気持ちいーなって思って」
「へ?」
もう日は傾いている。大勢いた家族連れはとっくに帰り支度だ。今水の中にいるのはぴったりと寄り添ったカップル達ばかり。
ダメだ、離せねえ。だから無理だって言ったのにな。
今日の夕飯は、なんか適当に食っといてもらおう。そんなことを考えながら、麻生はむぎの濡れた首筋に顔を埋めた。