「これじゃ、どれが天の川かも分からないくらいだな…」
「天の川って?」
思わずこぼれた言葉に、孔明が振り返った。数歩先を歩いているとばかり思っていた孔明は、いつの間にか立ち止まって花の顔を見ている。
「あ。私の国にあったお話に出てくる星の集まりの名前です。もとは確か中国のお話だったかな……? 織姫と彦星……ええと、織女星と牽牛星、
という星があって、天の川をはさんで輝いているんです。天帝の娘で機織りの上手かった織女星は、働き者だった牽牛星と夫婦になるんですが、結婚した途端二人は
遊び暮らすようになってしまったので、怒った天帝に引き離されてしまうんです。それで、二人は年に一度しか会えなくなった…というお話です」
「織女と牽牛…? 確か詩経にはその星の名前が出てきたけど、そんな伝説はなかったなあ」
孔明は顎に手を当てながら、首をひねった。
「うーん、時代が違うのかな? それとも、こっちの世界だと、お話自体が違ってしまうのかもしれません」
「ふうん、君の国のお話っておもしろいんだねえ」
花の言葉に、孔明は感心したように言った。
「それで、年に一度って、どの日か決まっているの?」
「はい。七夕といって七月七日がその日なんです。その日になると、確かカササギが橋を造ってくれて、二人は会うことができるんです。でも、その日に雨が降
ると、二人は会うことができなくて、来年まで待たなくちゃいけないんです」
「へえ、天気任せなんだね。二人の逢瀬は」
「そうですね……」
孔明の言葉に、花は改めて七夕伝説を思い返した。確かに言われてみれば、二人がどんなにがんばっても、天気が悪ければ会えないなんて、ちょっと理不尽な
気がする。
「なんだか、ちょっと納得いきませんね……。師匠ならそんなときどうしますか?」
「どうするとは何? 弟子たる君は、ボクが天帝に何か文句を言われてしまうような仕事ぶりしかしていないとでも言うつもりかな?」
「…いえ、すみません。絶対そんなことはないです」
花は思わず頭を下げた。今の孔明が仕事をさぼって遊び呆けているなんて、玄徳軍の誰に聞いても、一言で却下されるだろう。朝から晩まで、それこそ一緒に
仕事をしている花から見て、少しでも休んでくれないだろうかと心配になるほど、孔明は仕事に追われていた。
「今の師匠くらい仕事をしていたら、天帝も絶対に文句なんか言えませんよね」
花がしみじみと呟くと、孔明はくすりと笑った。
「逆に、君はどうなの?」
「え、どうなのって」
首を傾げる花に、孔明が問いかける。
「この二人みたいに、ボクともっと一緒に遊びたい?」
「そんなことありません!」
花は勢い込んで答えた。
「だって、今、師匠と一緒に仕事をするのがとても楽しいんです」
「毎日書簡を持って、あちこち動き回ることが?」
「う……。そりゃ、まだ文字の読み書きもあんまりできないんで、できることといったらそれぐらいしかないんですけど……」
花の語尾が尻すぼみに消えていく。
実際、空いた時間を使って孔明に教えてもらいながら手習いをしているとはいえ、花はまだあまり文字を読んだり書いたりできない。孔明の仕事を手伝うと
いっても、できるのは書簡の仕分けや届け物、掃除といった雑用ぐらいだ。
そのことを思い、花は目に見えてしゅんとなる。
でも、首を振って顔を上げた花は、孔明の目を見て真っ直ぐ言った。
「でも、ほんの少しでも、私が役に立ってることはありますよね? この国が平和に、豊かになるようにがんばっている師匠のお手伝いができることが、私には
何より嬉しいんです」
きっぱりと言い切ってふわりと笑う花の顔を、孔明はまじまじと見た。その視線の強さに、花の居心地が悪くなる。
「……あの、私、ヘンなこと言いました…?」
「いや、君って子は……」
珍しく、孔明は言葉を濁した。
この世界に、自分を選んで残ってくれた。
元の世界にあったはずの彼女を大切に思う家族や友人、こちらでは望べくもない安心や幸せを捨ててまで自分を選んでくれた彼女に、それ以上の幸福を与えて
あげられるのか、毎日不安があった。
せめて、彼女が安心して暮らせるようにしようと、世界を整える努力をすればするほど、己の仕事は忙しくなり、必然的に弟子である彼女にもとばっちりがい
く。忙しさの中に、彼女の幸せがあるとは思えなかったのだが。
何より嬉しいんです。
その一言が、孔明をいとも容易く救ってくれる。
「……ボクも、嬉しいよ…」
「え、師匠? 聞こえないです」
顔をのぞき込んでくる花のおでこを、孔明がピンと指で弾いた。
「い、痛っ。なんですか?」
「うん? 急にボクの顔をのぞき込むからだよ。つい、指が動いちゃった」
ぺろっと舌を出して笑う孔明に、額を抑えた花が声を上げる。
「ついって何ですか、ついって!」
「いやあ、ごめんごめん。そんなに近くで見たいんだったら、お望み通りにするよ?」
「え? いえ、いいです。というか近いですって、師匠!」
急に顔を寄せてきた孔明に、花の顔が赤く染まる。孔明は花の顔を両手で包み込んだ。
「孔明。名前、呼んでくれない?」
「どうして、突然……」
「いいから」
「うう……孔明、さん」
「うん、花」
真っ赤になった花の顔に、孔明がこつんと額を付ける。囁くような声で言葉を紡ぐ。
「もし君が望むなら、ボクは天気だって何とかするよ」
星読みは得意なんだ、という孔明の言葉に、一瞬目を丸くした花の顔が嬉しそうにほころんだ。
夜気をはらんだ涼しい風が、草木の葉を揺らして通り過ぎる。
仄かに明るい星明かりの中、二つの影はひたと寄り添って立っていた。