二人が話しながら庭に出ると、回廊の向こうから翼徳がかけてきた。
芙蓉の持つ皿を見て、早速目を輝かせている。
「うわーっ、美味そう! なあなあ、食べていい?」
「いいですよ。どうぞ」
翼徳は手を大きく広げてさくらんぼをつかむと、口いっぱいに頬ばった。
「ちょ、翼徳殿! 一度にたくさん食べ過ぎよ!」
芙蓉の言葉もどこ吹く風だ。
「ん〜〜っ、美味い!」
幸せそうに目を細めて食べる翼徳を見て、花の顔もほころんでしまった。芙蓉も思わず苦笑して、花の顔を見る。
「私たちも食べましょうか」
「うん、食べよう」
一粒、つまみ上げて口に入れる。ひんやりした果実が舌に嬉しい。弾力のある甘い実を堪能していたところ、翼徳が顔をしかめて種を出した。
「うーん、こんなに種、あった。せっかく美味しいのになあ」
「翼徳殿は一度に食べ過ぎなんです。ゆっくり食べればいいのに」
「だって、お腹すいていたんだ……あれ、まだあった」
翼徳は口の中に残ったさくらんぼの軸を舌の上に出した。
それを見て、元の世界で聞いたあることを思い出した花の中に、ちょっとした悪戯心が湧いた。
「翼徳さん。その軸を口の中で結ぶことはできますか?」
「うん? なんだそれ?」
「こう、口の中で舌を使って軸を結ぶんですよ。こんな風に…」
花は、指で軸を結んでみた。それを見て芙蓉と翼徳が目を丸くする。
「ええーっ、無理だよ。そんなこと口の中でできるわけないじゃん!」
「そうねえ。口の中だけでなんて、ねえ」
「何を騒いでいるのかな」
ふと気がつくと、孔明と雲長が立っていた。にぎやかな声に惹かれてきたらしい。
「あ、すみません。騒がしかったですね」
あわてて花が謝った。それはいいけど、と孔明が首をひねる。
「みんなで果物を食べていた…だけじゃないみたいだけど。何かしていたの?」
「これを口の中で結べるか、とこの子が言い出したんですよ」
「ふ、芙蓉姫…」
花は芙蓉の袖を引っ張ったが、気付かない芙蓉はさくらんぼの軸を手に二人に説明した。雲長が軽く眉を寄せる。
「舌を使って結ぶということか…」
「なあ、雲長兄い。そんなこと、できるわけないよな」
翼徳の言葉に、雲長が軽く首を振る。
「できる奴がいないとは限らない」
「えーっ、オレには無理だ。兄いは? できる?」
「いや、どうだろう。やってみたことはないが」
「ええっ、兄い、やってみてよ!」
雲長は、短くため息をついてさくらんぼの軸を口に含んだ。しばらく口を動かしていたが、やがてそっと口から出した軸は緩く曲がり、かろうじて端が引っか
かって結び目となっている。
「うわあ、兄い、すごいな!」
「へえ、できる人がいるとは思わなかったわ」
「雲長さん、すごいんですね」
「こういうのは、ちょっとしたコツがあるだけだ。すごいってことでもないだろう」
三人の言葉に、雲長は苦笑した。
じゃあ、と雲長がきびすを返して行こうとしたときに、翼徳が口を開いた。
「孔明は? できる?」
「ボクですか」
無邪気な顔を向けて尋ねてきた翼徳に、孔明は首を傾げた。思わぬ大騒ぎになってきたことに気づいた花は、慌てて口をはさんだ。
「あ、いえ、別にホントにできなくてもいいんです。普通はできなくて当たり前ですし。ただちょっと言ってみただけで…」
「やっぱ、そうか。難しいもんな」
決めつけるような翼徳の言葉に、孔明の眉が上がった。
「無理と決めつけたものでもありませんよ」
表情の読めない顔で孔明が言った。
「ええっ、師匠、できるんですか?」
「何その言葉。ボクには無理だと思ってるの?」
「え、でも…」
「では、孔明殿はできるというのね?」
芙蓉の疑うような言葉には応えず、孔明はひょいと軸を口に入れた。しばらくもごもごと口を動かしていたが、やがて出されたものは。
「師匠、すごい…」
「完璧だな」
「すっげー。手で結んだみたいだ」
ぐるりと曲げられた軸は、しっかりとした結び目ができていた。先ほどの雲長のものと比べると、明らかに上手い。
「昔、隆中の山の中で一人暮らしていたときに、時々戯れにやっていまして」
「初めて聞いたわ、そんなこと。しかも、こんなに上手いなんて…」
「ボク、負けず嫌いなんです」
驚く芙蓉に、孔明がにっこり笑って言う。その顔を見て、花はため息しか出てこなかった。
「……ところで」
孔明が笑顔のまま、花の顔を見た。
「これができたら、何か良いことあるの?」
「え」
花は、一瞬にして固まった。
『さくらんぼの茎を舌で結べる人は、キスが上手い』
友人達との噂を思い出して、軽い気持ちで口に出してみたわけだったが、花には当然こんなことをうまく説明できるわけもなかった。思わず目が泳いで
しまう。
「と、特にないです」
「本当? じゃあ、どうしてこんなこと思いついたの」
「え、ええと、それは……」
どうにかしてこの場を逃れる方法はないかとあたふたしている花に、雲長が助け船を出した。
「孔明殿。先ほど、玄兄のところに使者が来たと報告があった。そろそろ行かなければならないと思うが」
「ああ、もういらっしゃる頃合いでしたね。では、行きましょう。じゃあ、花。あの机の書簡は仕分けをして、まとめておいて」
「分かりました、師匠」
助かった。あからさまにホッとした花は、芙蓉たちとともに、残りのさくらんぼを手早く片づけ始めた。
だから、花は気づかなかった。
孔明が一瞬振り返って、楽しげな笑みを浮かべていたことに――――。