「あれ? 灯りの油が少なくなっていますね」
「もう、夜も更けてきたしね。君は、もうお休み」
「師匠は、まだ仕事をしていくんですか」
「んー、これだけまとめたら、ボクも休むよ」
「分かりました。じゃあ、失礼します」
気づけばとっくに月も昇りきっている。孔明に促されて、花は部屋を後にした。
自室に戻り、細々としたものを片づけた花がそろそろ寝る準備をしようかと立ち上がると、小さく扉を叩く音がした。こんな時間に訪ねてくる人がいる
のは珍しい。花は、扉の隙間からそっと声を出した。
「はい。どなたですか」
「ボクだよ」
「師匠!?」
慌てて扉を開くと、そこに孔明が立っていた。
「どうしたんですか? こんな時間に」
「ちょっと君に聞きたいことがあってね。今、いいかな」
「え、今ですか」
花は慌てて部屋を振り返った。寝る準備はまだだったため、見られて困るものは出ていない。こんな夜更けに男の人を部屋に入れるのはどうかと思われたが、
相手は師匠だし何か急ぎの用があったのかもしれない。
少し躊躇したが、このまま立ち話をしている方が迷惑になりそうだと考えて、花は一つ深呼吸をして心を落ち着けると、そっと扉を開けた。
「はい。…あの、どうぞ?」
「ありがとう」
孔明はするりと部屋に滑り込んだ。
「もしかして、もう休む準備をしていたところだった?」
「あ、いえ、これからしようとしたところだったのでまだです。師匠こそ、まだお仕事だったんですね」
部屋を見回している孔明に花が尋ねると、苦笑と頷きが返ってきた。
「うん。思ったより時間がかかってしまってね」
もっと早く来るつもりだったんだけど、と言われて、花は最初に言われたことを思い出した。
「そういえば、師匠は何か聞きたいことがあるって言ってましたね。何でしたか」
「うん、そのことなんだけど」
孔明が花に一歩近づいた。
彼のまとう雰囲気が微妙に変化したように見えて、花が首を傾げる。その顔を見ながら、孔明がいつもの穏やかな笑顔を浮かべて言った。
「昼の桜桃の軸について、教えてもらおうかなと思って」
「昼の、って…………。えええっ!」
「しーっ、声が大きいよ。もう大抵の人は休んでいる時間なんだからね」
唇に指を当ててたしなめられて、慌てて声を抑えたものの花の動揺は収まらなかった。
「な、な、なんで今頃…!」
「だって、気になるじゃないか。ボクは疑問を放っておけない性質だし」
「そ、そりゃ、師匠ならそうかもしれませんけど」
孔明はにこにこ笑っているが、あのことについて教えるなんて、恥ずかしくてできない。
見る見る顔が赤くなる。そんな花を見て、孔明がまた近づいてくる。
「はーな、教えてくれないの?」
「む、む、無理です……!」
顔を背けてしまった花に、孔明がわざとらしくため息をついた。
「そうか、教えてくれないのか……。君は知っていることなのに、ボクには言えないことだと言うんだね」
そう言われると、ぐっと詰まる。
確かにあれは花自身が言い出したことだ。そのくせ、必死でそれを隠そうとしているという事実に後ろめたくなる。
しばらく逡巡した後、思い切って花が顔を上げると、すぐそこに自分を真っ直ぐ見つめる孔明の顔があった。黒い瞳には普段は見られない熱が宿り、両の手が
花の頬を挟んで動けなくする。
「ししょ―――」
続きの言葉は、すぐに降りてきた唇に飲み込まれた。
いつもなら優しく掠めるように触れた後、すぐに離れていく唇が、今日は熱を全て奪うように角度を変えて何度も重なる。驚きに目を見開くと、半ば閉
じられた瞳が間近にあり、花の鼓動が大きく跳ねた。
気づくと孔明の舌が唇の上を何度も繰り返し滑っていて、濡れた柔らかな感触が花の思考する気力を奪っていく。
「ふ、あっ……」
耐えきれず甘い吐息がもれると、そこからすかさず温かな舌が割り込んできた。丁寧に歯列をなぞり上下の唇を優しく甘噛みされると、ぞくりと背筋をはい上
がるものがあり、花はきつく目を閉じた。閉じた瞼に涙が滲む。
膝の力が抜けてがくりと崩れそうになった花の躰を孔明の腕が強く抱きとめて、ようやく唇を解放された。
そのまま荒く息をつく花の耳に、少し掠れた囁きが吹き込まれる。
「もしかして、こういうこと…?」
「え…!?」
すごい勢いで孔明の顔を見上げた花が、口を何度か開閉させて、やっと声を絞り出した。
「ど、どうして、知って……」
「あー、やっぱりそうだったんだ」
ひどく楽しそうに、孔明が答える。
「だって、あんなことができたって、唇と舌の使い方が上手いというだけで、普段の生活では何の役にも立たないでしょ。それに、君があんまりに恥ずかしがっ
ていたからねえ。分からない方がどうかしてる」
「………!! ってことは、師匠、知ってて……」
「君がどう答えるか、ボクも楽しみだったからね」
平然と答える孔明に、ただでさえ紅潮していた花の顔が、これ以上できないくらい赤く、赤く染まっていく。
「ところで」
すっかり熟れた花を見て、孔明がにんまりといった表情を浮かべる。
「ということは、ボクって上手いんだよね」
「え?」
「これからも頑張るから。君も楽しみにしているんだよ」
「え、え?」
花が何か言う間もなく、「お休み」と笑顔を残した孔明は扉をするりと抜け、部屋を出ていった。
「え、ええと、ボクが、上手くて、…頑張るから………ってことは」
孔明の言葉を繰り返し、数瞬遅れてやっと理解した花は、「師匠〜」と情けない声で言うのが精一杯だった。