「そういえば、師匠は泳ぎが得意だって言ってたよね」
以前一緒に呉まで船旅をしたとき、泳ぎは得意な方だと言っていた。そのとき「君は落ちても浮くよ」「あ、体重が軽いという意味じゃないからね」と微妙に
失礼なことも一緒に言われた気もするが、そこはスルーしておく。
「一緒に泳げたら、楽しいんだろうな………」
誰にも聞かれないように、小さく、小さく呟いた。
毎日仕事は山ほどあるし、自分以上に孔明は忙しい。彼の元で、この国の平和と繁栄のために働いたり学んだりしているこの日々は、花にとって楽しいし喜び
でもあるが、元の世界だったら、海やプールでデートするという選択肢もあったなと思うと、ほんの少し惜しい気もした。
それは、一緒に遊びたかったということとも少し異なっている。亮と呼ばれる子どもだった頃から、孔明がずっと努力してきたことを、花は知っている。楽し
みというものがあったのかどうか分からない彼を見ているから、そう思うのかもしれない。
そして、孔明がいない世界では意味がないのだ。
孔明を幸せにしたい。
孔明の側にいたい。
結局、自分の願うことは、そこに行き着くのだから。
ふと、顔に当たる日差しが強くなったことに気づいて、花は顔をしかめた。いつの間にか日が少し傾いている。
それでも、これだけ暑いのだから、せめて足先だけでも水につけたい。花は、手足をぐっと伸ばした。
この先に、確か小川があったはずだ。孔明に気づかれたら、危ないからとか仕事中なのにといって絶対止められるだろうから、こっそり行かなくては。
「…よし、休憩になったら行ってみよう! ダッシュで戻れば大丈夫だよね?」
「何が?」
「ひゃっ!」
すぐ後ろで聞こえた声に思わず飛び上がりかけた。振り返ると、孔明がしゃがんで自分をのぞき込んでいた。
「し、師匠、いつの間に…!?」
「うん? 君がうつむいてブツブツ言っていたときからかなあ」
「…それって、ずいぶん前からじゃないですか……」
相変わらず神出鬼没な孔明に、花は肩を落とした。孔明は膝にひじを突いて顎を支えながら、涼しい顔をしている。
「いつ気づくかと思っていたんだけどね。君は、もう少し人の気配に聡くなった方がいいよ」
「師匠が気配を消しすぎなんです!」
「そうかな? 今の君になら、大抵の人が気づかれずに近づけちゃうと思うよ? 君、だら〜っと力を抜いていたからねえ」
軍師として、もう少しぴりっとしないと下の者達に示しがつかないよ、と言われ、花はしゅんとなった。確かに立場を考えると、こんな人に見える場所で気を
抜いていて良いわけではない。
「…はい。気をつけます、師匠」
「うん、いい返事だ。ところで」
孔明が、花の顔を見る。
「どこへ行くの?」
「…え?」
「休憩になったらどこへ行くつもりだったのって、聞いてるの。ダッシュ…というのはよく分からなかったけど」
花の顔が一気に青ざめた。孔明はニコニコしているが、目は笑っていない。言い逃れは許してもらえなさそうだ。
「…えと、み、水のあるところ…?」
「ふうん。それで、井戸へ行くの? それとも、その池かな?」
「…………向こうの、小川まで」
「そう。何も言わないで、こっそり行こうと思っていたんだね」
やっぱり、目が笑ってない〜〜〜! 花は、心の中で悲鳴を上げた。口元は笑みの形なのに、ちっとも笑いの感情が伝わってこない。びくびくしていたら、ふ
うっと孔明がため息をついた。
「そんなことだろうとは思ったけどね……」
「あ、あの、師匠。怒ってます…?」
「いや。この程度のことは予想がついていたしね。今更怒らないよ?」
その発想が君だなあと思っただけで、と続けられて、思わず首をすくめる。そんなに自分の考えていることは分かりやすいのだろうか。そんなことを考えたと
き、孔明がじろりと花を睨んだ。
「ただ、君はまだ分かっていないみたいだから、注意はさせてもらうよ。一人で川まで行って、誰かに狙われたらどうするつもりだったの」
その声に、花は小さくなった。そこまでは考えていなかった。
「玄徳軍の軍師として、そういったことはないと言えないし、君は自分では身を守れないんだよ? また、何か獣に襲われるとか足を滑らせるとか、危険なこと
があるかもしれない。そういうときに、君はどうやって助けを求めるつもり?」
厳しい口調で言う孔明のもっともな言葉に、花はひたすらうなだれて聞いていた。自分ではちょっとだけのつもりだったが、その瞬間にも何があるか分からな
い。注意をしても、し過ぎることはないのだ。
「…すみません。考えが足りなかったです」
花の反省しきった声に、孔明も表情を和らげた。
「分かればいいよ。ほら、戻ろうか」
「はい」
うなずいて立ち上がると、花は孔明について歩いていく。しばらく進み、回廊の曲がり角を曲がったところで、花が声を上げた。
「……師匠。こっちは道が違うと思うんですけど。どこへ行くんですか」
孔明と自分の執務室は、今の曲がり角を反対方向へ行ったところにある。孔明は、そのまま歩きながら答えた。
「水とたらいをもらいに行くんだよ。ずいぶん暑かったみたいだし」
足をつけるだけでも気持ちいいでしょ、と言われて、花の顔がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます!」
「君に逃げ出されたら、ボクもどうなるか分かんないし」
「にげ…っ!? 逃げません!」
「えー、さっきのも逃げるって言わないかなあ」
「…い、言いませんよ? ちょっと、暑かったから、あれだけど……」
小さくなった花の声を聞きながら、孔明が笑う。
「だから。行きたかったら、ボクと一緒にね」
孔明の悪戯っぽい目が自分へと注がれる。
「………はいっ、一緒に行きましょう!」
いつか、一緒に。
デートしましょう。