落ち着いた孔明の声に少し頭が冷えたが、身に染みついたハチへの恐怖は簡単には消えない。すっぽりと包まれるように抱きしめられていても、遠くか
らハチの唸るような羽音が聞こえてきて、花はぎゅっと目を閉じた。
細かく震える花の耳に少し硬い手がすっと伸びてきて、そのまま耳をふさぐようにして強く胸に押しつけられた。孔明の鼓動を直に感じる。その規則正しい音
に集中し
ようと、花は必死で意識をそちらへ向けた。
しばらく聞こえていた羽音が、ふっと消えた。
「出ていったよ。もう大丈夫」
その言葉が躰に直接響くように聞こえてきて、少しずつ力が抜けていく。ようやく息をついた花は、改めて孔明の鼓動を聞いた。
あ、師匠の音だ…。
とくんとくんと響く音は、思ったより早く聞こえる。眼を閉じてその拍動に集中していた花の耳に、長いため息が聞こえた。
「師匠?」
目を上げると、思わぬ近いところに孔明の顔がありぎょっとしたが、自分を見下ろしていた孔明の黒い瞳も同じく揺れた気がして、花は首をかしげた。
その様子に、孔明が苦笑する。
「君ってば、本当に警戒心の足りない子だよね。ボクとしては都合がいいけどさ」
その言葉に、ふと我に返った。
あれ、今って私、師匠に抱きしめられている……?
「えええええっ!」
花は一拍遅れて飛び退こうとしたが、孔明の腕は緩まなかった。
「こら、暴れないの。せっかく落ち着いたんでしょ?」
「だ、だって…!」
子どもみたいな真似をしたと恥ずかしさに赤くなった花が焦って離れようともがいていると、不意にするりと腕がほどけた。
「全く。……あーあ、残念」
ぺろりと舌を出して笑う孔明に、ますます花の顔が赤くなる。
「もう大丈夫?」
「は、はい。大丈夫…です」
「そっか。よかった」
何気なく言って立ち上がった孔明の顔がまともに見られなくて、花は慌てて言葉を探した。書簡を取ろうと背中を向けた孔明に声をかける。
「あ…の、助けてくれてありがとうごさいました」
「うん」
「……わ、私、書庫に戻りますね!」
「うん、じゃあ、またあとで」
孔明の声に送られて、ぎくしゃくと歩き出しながら、花は扉を後ろ手に閉めて一息ついた。
あんなに怖いはずのハチのことまで、もう頭から吹き飛んでしまっている。
耳まで赤くなってしまったなんて、きっと師匠には分かってしまってるけど。
花は思い切り駆けだした。
<おまけ>
〜その後の執務室で〜
……ふう。
花の足音が聞こえなくなってから、孔明は大きく息を吐いた。
「全く……。全然分かってないんだよね」
先ほどまでのやりとりを思い出して、思わず片手を額に当てる。
ハチを怖がって怯えている花を見て、落ち着かせてあげようと彼女を腕に抱きしめた。だから、安堵してくれるのはありがたいのだが。
「腕の中であんなに安心されるなんて、男としてどうかと思うんだよね……」
幼い頃から今に至るまでずっと大好きで大切に想い続けている女性を、じっと大人しく抱きしめているだけのこっちの身にもなってほしい。しかも、怖さで半
泣きになっているだけだと分かっていても、目に涙を浮かべて自分を見上げる彼女の顔に、何も感じない方がどうかしている。
花も動転していたから気づかれなかったが、あの瞬間、孔明の心臓も大きく跳ねていた。
あのときの花を思い出して、少し熱くなった自分の頬に思わず手をやる。
ボクの鼓動の方がキミより少し早かったことは、キミには絶対に教えない。