「うわっ、やっちゃった」
右手の親指から中指まで、ざっくり切れていた。ティーポットのガラスの欠片にも、血がついている。
「むぎちゃん! 大丈夫?」
瀬伊くんが青くなっている。「大丈夫」と手をひらひら振って答えようとしたら、
「何してんのさ!」
きつい声で叱られた。
「傷口確かめて、すぐ消毒しなくちゃ。手、こっちに貸して」
強い力で引っ張られ、慌てて手を差し出した。慎重に傷口を調べた瀬伊くんは、
「ガラスの欠片は入っていなさそうだね。じゃ、消毒して止血するよ」
と振り返った。騒ぎに気づいた一哉くん達もリビングからやってきた。
「どうした? 指切ったのか」
「うわっ、ひでえな。血が随分出てるじゃないか」
二人とも、眉を顰めている。
「松川さん。リビングで救急箱取ってきてくれない?」
「分かった。すぐに持ってくるよ」
依織くんがリビングから救急箱を持ってきて消毒薬を掛けた後、瀬伊くんが傷口にガーゼを押しつけ、包帯をかなり強く巻き付けた。思わず声が出た。
「うっ……。結構、きつめだね。」
「まずは血を止めなくちゃいけないから。痛いのは我慢してね」
麻生くんがふと顔を上げた。
「おい、御堂。こいつの今日の仕事は休ませたらどうだ?こんなんじゃ、仕事できねえだろ」
「ああ、そうだな。俺はこれから仕事に出るし。松川さんもいいですね」
「ああ、もちろんだよ。いつもむぎちゃんにはいろいろ迷惑掛けているし、こんな時ぐらい休んでもらわなくちゃ。ね」
依織くんも優しい笑顔で頷いてくれた。
「一宮。10分後ぐらいに一度様子を見るといい。血が止まったら早めに取ってやらないと、指先が壊死を起こす」
「分かってるよ、一哉」
一哉くんはちょっと心配そうにあたしを見た後、会社に出かけていった。依織くんと麻生くんも割れたガラスを片づけて自室へ戻った。
しばらくして指のガーゼを取ると、少しにじんでいるものの、ほぼ血は止まっていた。
「血は止まったね。よかった」
「瀬伊くんも、心配掛けてごめんね。」
しゅんとして謝ると、瀬伊くんは、
「ホントだよ。心臓に悪いんだから。もう勘弁してよね」
と小さく笑顔を見せた。
自室に戻ってみると利き手の指を怪我しているのはいろいろ不便なことが分かった。今日は早めに休もうとお風呂の準備をしかけて、あたしはハタと気
が付いた。
「どうやってお風呂に入ろう……」
割烹着を脱ぐだけでも相当大変だったのだ。お風呂に入ったら、指は濡れるに決まっているし、体を洗うこともできやしない。
「でも、髪の毛洗いたいよ〜」
夏に汗をかくと、髪の匂いがとても気になるし、今日は美術準備室の掃除もしたのだ。埃まみれの髪と体を何とかさっぱりさせたい。怪我した指とは逆の手に
服を持ってドア
の前に立つと、コンコンとノックの音。
「僕だけど。いい?」
瀬伊くんが、ドアの前に立っていた。
「様子を見に来たよ。指、どんな感じ? 僕はピアノ弾くから、どうしても気になって」
あたしの姿を見て、形のいい眉を顰める。
「……一応聞くけど、何するつもり?」
「お風呂に入ろうと思って……」
「ふーん、そんな手で? 気づいてる?」
え。慌てて右手を見てみると、さっき取り替えたガーゼに血が滲み始めていた。
「うそ。いつの間に」
「傷口開いちゃったんだね。気づかなかったの?」
そういえば、さっき割烹着の背中のひもを解くとき少し力入っちゃったっけ。妙に痛いと思っていたんだ。
「やっぱり無茶してたね。来てよかったよ」
「……あ、あの、ちょっとさっぱりしたくて」
「それで、傷口化膿させたいの?濡れたりしたら、治るものも治らないと思うんだけど」
いつになく怒っている瀬伊くんに、だんだん声が小さくなる。そうしたあたしの様子を見て、ふと瀬伊くんの声が和らいだ。
「でも、あれだけ準備室掃除した後じゃ、気持ちは分からなくもないし」
「へ? 何で知ってるの」
「僕は、ちゃんとノックしたよ。君が夢中で気づかなかっただけ。がんばってる姿がおもしろかったから、しばらく見学してた」
楽しそうに笑う彼に力が抜ける。
「で、がんばったご褒美に僕が洗ってあげるよ、髪の毛。だったらいいでしょ」
「……はあ!?」
今、とんでもないことを言われた気がする
「どこで?」
「お風呂で」
「誰が?」
「僕が」
「何するの」
「むぎちゃんの髪を洗うの」
――やっぱり、聞き間違いじゃない。
「あ、体も流してあげようか? さっぱりしたいでしょ?」
くらり。眩暈がした。貧血になるほど出血した覚えはないのだけど。
「それは冗談にしても、実際一人でお風呂入れないでしょ。シャワー使うだけでも大変だと思うけど」
それは一番気になっていることだけに、反論できない。実際指のガーゼはもう真っ赤だ。血が止まっているとは、お世辞にも言えない。
「ヘンなこと、しない?」
「こんな怪我をしている君に何かするほど、僕、ひどい人に見える? 心外だなあ」
悲しそうな顔で目を伏せる。この顔に何度か騙されてきた身としては気になるが、何より今は汗と埃を流したい。その気持ちが打ち勝った。
「……じゃ、お願いするね。」
「お湯加減、いい?」
「うん、ちょうどいいよ」
お風呂のいすに座って、湯船に頭を入れるような姿勢で、あたしは髪を洗ってもらっていた。温かいお湯が気持ちいい。
悩んだ末に、いつものキャミソールと
ミニスカートは脱いで、少し緩めのワンピースに着替えた。次脱ぐときも楽だし、コットン100%だから何ならそのまま寝ちゃってもいい。
ざっと髪の毛を濡らした後、瀬伊くんは、シャンプーを泡立てて髪を洗い始めた。優しくマッサージをするように指を滑らせていく。ピアニストだからかどこ
か踊るような指先に、フローラルの香りが混じって、気分がふわふわしてくる。
「……気持ちいい〜」
思わず声が漏れた。
「瀬伊くん、髪洗うの上手いね。プロの美容師さんみたい」
「フフ。これからずっと髪洗ってあげようか?」
「えっ!? も、もう瀬伊くんってば。冗談言わないでよ」
「別に冗談なんかじゃないよ。君のこんな姿見られるんなら、いくらでもするよ」
なっ……! 瞬間耳まで真っ赤になったのが分かった。
「あれ? むぎちゃん、どうしたの? 首筋、赤くなってるよ」
顔を見なくても、声で彼が笑っているのがはっきり分かる。分かってるくせに。
「うう〜。からかわないでよ、もう」
「だって。むぎちゃんに『気持ちいい』って言わせることができるんなら、こんなチャンス、僕としては逃さないよ」
え? 声のトーンが変わった!?
そっと振り向くと、瀬伊くんと目が合った。大輪の花が開くような艶やかな笑みに、目を奪われてしまう。
「ほら、前を向いて」
逆らえずに前を向くと、首筋に指の感触。触れたところがかっと熱を持つ。
「むぎちゃんの項、きれいだね。ここも洗ってあげる」
ひゃあああ。指がするりと項を撫でていく。心臓がばくばくしてる。たまらなくなって逃げようとしたら、
「まだ泡だらけだよ。ちゃんと流さなくっちゃ」
と瀬伊くんはにっこりした。狙ってた!? ジタバタしても、泡を落とさなくちゃ外には出られない。
「大丈夫。いつものスキンシップと同じだよ。……そんなに意識しないで」
意識するに決まってるってば〜! 半泣きでもう一度顔を伏せた。
温かいシャワーが髪の泡を流していく。あれだけ意地悪なことを言ってたのとは裏腹に、瀬伊くんの指は優しく髪を梳いていく。
やっぱり気持ちいい。
ふっと体の力が抜けたことに気づいたんだろう。瀬伊くんがくすっと笑う気配がした。ドキドキしてるのは、あたしだけ?なんだか悔しい。
「じゃあ、リンスするね」
ひんやりとしたリンスが付けられ、もう一度流された。フローラルの香りが強くなる。
「はい、こっちへ来て」
脱衣室からタオルを持ってきた瀬伊くんは、ふんわりと髪を包んで水気をふき取ってくれた。壊れ物を扱うみたいにそっと、とても丁寧に拭いてくれているの
が分かる。
「……ありがと。すごくさっぱりしたよ」
「どういたしまして」
澄ました笑顔が憎らしいけど、とても嬉しかったのもまた事実。
「はい、右手を貸して」
「え?」
反射的に手を差し出すと、右手にビニール袋をかぶせ、輪ゴムで縛ってくれた。
「こうすれば、体を洗うくらいなら大丈夫だよ」
「あ、そっか。これなら自分でも何とか洗えるもんね」
「僕としては、体もきちんと洗ってあげたいけどね♪」
とんでもない発言に、
「瀬伊くん!!」
思わず大声を上げた。瀬伊くんはくすくす笑って、
「後でまたドライヤーで乾かしてあげる。……ねえ、指が治ったら、オレンジのムース作ってよ。がんばったご褒美に」
「知らないよ。もう、せっかく素直に感心しかけたのに」
あたしは、ぷいっと顔を背けた。
「え〜、こんなにがんばったのにな。……こうしたいのも我慢して」
項を掠めたのは、指より柔らかな――。
「え、あ、今の……?」
「じゃ、また後でね」
ぱたんと洗面所のドアが閉まる。
一瞬で、心拍数が跳ね上がったのが分かった。
絶対あたしの心臓、働き過ぎ。あたしはずるずるとドアの前にしゃがみ込んだ。
あとがき
美容師さんにしてもらうシャンプーって、気持ちいいですよね。それにピアニストの指が加わったら!? と想像していて生まれた作品です。つき合う
前
なので、けっこう瀬伊もがんばったのではないかと。誘惑に負けないという意味で(笑)