「花火大会か……」
今朝の新聞の折り込みチラシに入ってきたのは、花火大会の案内。家族が揃っていた頃は、毎年家族みんなで、大きくなってからは友人たちと見に行ったりも
した。
去年の今頃は、とてもそんな余裕はなかった。
行方不明の姉を捜すために、むぎは一哉に頼み込んで祥慶学園に入れてもらった。昼は学園で美術教師、夜は御
堂家の家政婦業で精一杯。夏休みは学園から美術の補講まで頼まれていたため、夏はあっという間に過ぎてしまっていた。今年は去年より余裕のある夏休みなの
だが。
「今年も、無理だよね……」
むぎは、ため息をついた。
花火大会は、大好きだ。夜空に浮かび上がる色とりどりの花。みんなが頬を火照らせて空を見上げるときの歓声。たこ焼きや
金魚すくいなど道沿いにずらっと並ぶたくさんの夜店。思い思いの浴衣で歩く人々。楽しい想い出のいっぱい詰まった時間。
でも、瀬伊は行けないだろう。音に敏感な瀬伊は、人混みや雑音の多いところを苦手としている。腹にずしんと響く打ち上げ花火の音や人々の喧噪は、
繊細な
耳にはひどく辛いだろう。
花火大会には行きたいが、むぎが一緒に行きたいのは、瀬伊なのだ。
「うん。ま、いっか」
家で花火をやってもいいし。そんなことを思いながら、むぎはキッチンへ向かい、昼食の準備を始めた。
「むぎ。何か冷たいもの、欲しいな」
「あ、瀬伊くん。今、アイスティー作ってあげるね」
キッチンに顔を出した瀬伊に、むぎはにっこり笑って、グラスと氷を出し、アイスティーを入れ始めた。
ダイニングへ向かった瀬伊は、ふとテーブルに置き忘
れられたチラシに目をとめた。
「お待たせー」
アイスティーのグラスを持って現れたむぎに、
「行きたいの? これ」
チラシを持った瀬伊が、困ったような顔で聞いてきた。
しまった、あのチラシ、早く処分しとくんだった。そう思っても後の祭りである。
「え、あ、ううん。別に行きたくないよ。久しぶりだなーと思って見ていただけ」
「そっか。去年はとてもそんな余裕なかったもんね……」
寂しそうな顔で、瀬伊が呟く。やばい。これでは行きたいと言っているようなものだ。鋭い瀬伊にはすぐ気づかれてしまうだろう。
瀬伊は人のことをしょっ
ちゅうからかっているけれど、本当に望んでいることにはきちんと気づいてくれる。このままではきっと「大丈夫だよ」と自分を花火大会に連れて行こうとする
だろう。優しい瀬伊には、無理をさせたくない。
あ、いい方法があった。あれなら、瀬伊に無理をさせないで、一緒に花火が見られる。
「瀬伊くん。一緒に花火を見に行こう」
夕方、サンドイッチやおにぎりなど軽くつまめる物をバスケットに詰めて、むぎは瀬伊を誘って駅へ向かった。電車で一駅のところで、降りて通りを歩
く。
「むぎ、どこまで行くの?」
「えーとね、もう少し先だよ。あの角を曲がればすぐだから」
花火大会の会場からは、どんどん遠ざかっている。不思議そうな瀬伊に笑いかけて、むぎは先を急いだ。
「着いた。ここだよ」
「ここは……」
戸惑う瀬伊を手招きして、むぎはドアの鍵を開けた。
「あたしの住んでいた家。今は誰もいないけどね」
玄関で靴を脱ぎ、少し埃っぽい廊下を進んで、突き当たりの階段を上った。
「こっちだよ、瀬伊くん」
先に部屋に入ったむぎが声を掛ける。がらんとした部屋の中、むぎが窓に腰掛けていた。
「ここから、ちょっと遠いけど花火が見えるんだよ」
周りにあまり高い建物がないせいか、窓からは沈みかけた夕日が見える。
角度によっては、たまに半欠けになっちゃうこともあるけどねと笑うむぎを見て、
「気を遣わせちゃった……。僕のせいだね。ごめん」
と瀬伊は珍しく沈んだ声を出した。
「違うよ。……あのね、ここは大切な想い出があるところなの」
むぎは、瀬伊の顔をじっと見つめて話し始めた。
「昔、花火大会の日にあたしが熱を出しちゃったことがあってね。毎年見に行っていたから、行けないのが悔しくてお父さんたちに八つ当たりしちゃったの。そ
したら、みんな残ってくれてね、この部屋で一緒に花火を見たんだ。……うれしかったな、みんなの気持ちが」
家族揃って見た花火はそれだけではない。でも、心の中に残っている大切な想い出の一つだ。この家にいつまで自分がいられるか分からない。でもいつ
か来るその日までに、絶対忘れない想い出を刻み込んでおきたい。
だから、瀬伊と見たかった。これだけは、絶対忘れない自信があるから。
だんだん言っていて、顔が赤くなってきた。部屋はもう薄暗くなっていて、分からないだろうけど。
「ね、飲み物出そうか。そろそろ始まるし」
むぎが、水筒に手を伸ばすと、
「ひゃっ」
腕を掴まれて引っ張られ、そのまま瀬伊の胸の中に倒れ込んだ。
「せせせ瀬伊くん、なにっ!?」
思わず声が裏返る。瀬伊は、そのままむぎをぎゅっと抱きしめた。首筋に微かに息がかかる。
「ホントに、君は。どれだけ可愛いこと言ったら気が済むの?」
いつもより声が震えているように聞こえたのは、気のせいだろうか。
「絶対忘れない想い出になるよ。君の過去も一緒に」
瀬伊の顔が近づいてきて、優しい指が瞼に触れる。むぎはそっと目を閉じた。
「こうやって君を抱きしめながら、花火を見られるっていうのはいいね。僕、こういう花火見るの初めてなんだけど」
しばらくむぎを抱きしめていた瀬伊の妙に楽しそうな声に、むぎは彼を見上げた。瀬伊の顔はいつもの天使の微笑なのに、どこか黒い翼があるように見える。
むぎは顔が引きつるのを自覚した。
「……えっと、どういうこと?」
「えー、だって今日のこと、絶対に忘れられないようにしなくちゃいけないでしょ」
瀬伊がますます腕に力を込める。
「腕によりを掛けて、楽しませなくっちゃ♪」
「いえ、結構です! 今日は花火大会ってだけで十分楽しいし」
「それだけじゃ、申し訳ないよ。僕のこともすごく考えてもらったしね」
幸いここなら大丈夫だし、ちゃんとお返ししたいんだと笑う顔が、少し怖い。何が大丈夫なのか突っ込んでみたい気もするが、この後のことを考えて、どう
やったらこの腕から逃れられるのか真剣に考え始めたとき、
「あ、始まった」
ポン、ポーン。かわいい音がして、窓の向こうの夜空に、小さな花が鮮やかに咲いた。