昔話

「今日は、たいしたことないでしょ」
「そんなことないよ。ほら、熱があるもん」
「36度8分なんて、平熱です!」
「ひどいなあ。頭痛と喉の痛みもあるのに」
「もう、しょうがないなあ」

 この間のやりとり以来、瀬伊はちょっと調子が悪いと大げさに騒ぐ。でも甘えられるだけ甘えてくれるのが、正直嬉しい。
 むぎは、手早くホットレモンを作って、瀬伊に手渡した。
「瀬伊くんって、昔から風邪を引くとこんなに騒いでいたの?」
「まさか。これはむぎ限定」
 それもどうかと思うが、続きを聞いてみた。
「そうだな……。大抵ピアノを弾いていたんだよね」
「へ? 風邪引いてるのに?」
「うん。熱が出ててもピアノ弾きたくて仕方なくてさ。しょっちゅう抜け出してピアノの前に行ってた。ピアノの音が聞こえたりすると、もうテコでも離れな かった。」
「そんなことしてたら、治るものも治らないよ……。瀬伊くんが風邪引いたら、ピアノから隔離するしかなかったんだね」
 呆れ顔で言いながら、ふと引っかかったことがある。

「瀬伊くん。もしかして、青樹……先生、瀬伊くんのこと思って、一人にしてたんじゃない?」
「え、どういうこと?」
 瀬伊が眉を顰める。なんとなく思いついただけで確信があるわけではないが、言った方がいい気がして、むぎは瀬伊に向かって話してみた。
「だって、瀬伊くん、ほっとくとピアノのとこへ来ちゃって動かなかったんでしょ。……だったらピアノの音も聞かせないようにして、ベッドで寝かせておくし か ないんじゃない?」

「……分からないけど、さ。」
 数拍おいた沈黙の後、ふと目をそらしながら瀬伊が呟いた。冷めたホットレモンを飲み干して、カップをテーブルに置くと、
「ごちそうさま。じゃあ、僕は下へ行くよ」
 瀬伊の後ろ姿を見送りながら、何故か知らないはずの青樹の姿が浮かんだ。
 「瀬伊くんを休ませるのは大変ですね」
 心の中で話しかける。

 あの愛しい妖精と暮らした人。きっと悪い人じゃないよ。

 知らない人なのに、何故か彼のことがわかるような気がした。





あとがき
 この作品は、「そばにいるよ」のその後です。あちらに書き切れなかった青樹という人物を補えればと。『瀬伊は小さい頃不幸だった』んじゃなくて、果て し なく不器用な人に育てられていただけだと思いたい。で、「ちゃんと愛されていたんだよ」って伝えたい思いを込めて。

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