左手に氷水の入った洗面器とタオル、右手に水筒を持ってむぎが部屋に入ってきたとき、瀬伊は寝ているように見えた。そうっと近づいてタオルを絞り始める
と瀬伊の目が開き、少し部屋をさまよってから、むぎの姿を見つけた。
「むぎ。……よかった、ちゃんといる」
「ちゃんといるよ。大丈夫」
くすくす笑いながら、額に絞ったタオルを載せた。水筒から飲み物を注ぐ。
「スポーツドリンク、持ってきたよ。飲む?」
「うん」
大人しく手渡されたコップを口に持っていく瀬伊の顔色はまだ悪い。むぎはため息をついた。
「ねえ、今度から調子が悪いときはちゃんと言ってね。心配なんだから」
「うん、……そうだね」
冴えない表情に、むぎは首を傾げた。体調が悪いだけとは思えない。
「瀬伊くん?何か気になることあるの?」
「そうじゃないよ。ただ昔から病気になると独りぼっちになってしまうから、あんまり言いたくなかっただけ。……ごめんね」
「え?どういうこと?」
思いもかけない言葉にびっくりして、むぎは声を上げた。瀬伊は目を閉じたまま、話し始めた。
「前に話したことあるよね……。僕のピアノの先生、青樹は、僕が風邪を引いたと分かるといつも『部屋で休むように』と言ってそれきり来てくれなかったん
だ。……ベッドで一人寝ていると、世界に僕一人しかいないような気がしてきて……。いつもなら、気にならないんだけどね」
荒い息の合間から、少しずつ届く瀬伊の言葉。
「何それ」
小さな瀬伊が、一人ぼっちで寝ている姿が浮かぶ。寂しいのを堪えている顔が今の瀬伊と重なり、むぎは思わず目を閉じた。
「あ、怒っちゃった?だから言わないようにしてきたんだけど」
くすりと笑みをこぼしながら、瀬伊が言う。
「きっと君は僕の代わりに怒ってくれちゃうから」
「違う。怒ってるんじゃない」
むぎは声を殺して言った。熱いものがこみ上げる。怒りに似ていたが何処か違う。
「寂しいの。悲しいの。瀬伊くんがそう言っていることが」
「むぎ」
驚く彼に、むぎは言った。
「そんなこと、平気にならないでよ。あたしはここにいるんだよ。一人になんか、させるわけない!」
声は抑えたが激しく言い切る。気づいて欲しかった。いつも見ていること。
「寂しいくせに。言えばいいじゃない。いつもワガママ言うみたいに」
むぎの剣幕に驚いてぽかんと見ていた瀬伊だが、息を切らしたむぎを見て困ったように笑った。
「そんなに怒らないでよ。僕、病人なんだからさ」
あ、そうだった。熱くなって、思わずやっちゃった……。むぎの表情が一転して、しゅんとなる。
「ご、ごめん。体、辛いのに……。すぐ出てくから」
立ち上がろうとしたむぎの手を、瀬伊はきゅっと握りしめた。
「あんなに言ってくれたのに、もう僕を置いていくの?」
「え?」
「一人になんか、させないんでしょ」
瀬伊が熱で潤んだ目をこちらに向けてくる。思わず笑って、むぎは手を握り返した。
「もちろん。他に何かリクエストは?」
「何でもワガママ、聞いてくれるの?」
「いいよ。できることなら、何でもかなえてあげる」
自信たっぷりのむぎの言葉に、瀬伊はくすりと笑った。
「じゃあ、君からキスして。移っちゃうといけないから、ほっぺにでも……」
言葉を言いきる前に、むぎは瀬伊の唇に顔を寄せる。自分からのキスは初めてだけど、目を閉じてそっと唇を押し当てた。
「……っ、むぎ」
「き、今日は特別だから。瀬伊くんのために」
珍しく赤くなって口元を押さえた瀬伊を見ながら、早口で言う。初めて見る彼の顔は、ひどく可愛い。
「……眠れなくなっちゃうよ」
「大丈夫。眠れるまで一緒にいてあげるから」
さらさらした髪をむぎが撫でると、違うんだけどなあ……とぼやいた瀬伊だが、ゆっくり目を閉じる。睡魔が訪れてきたらしい。
「……ありがとう、むぎ」
一言小さく呟くと、瀬伊は眠りに落ちていった。
夢の中でも、あたしはいつもそばにいるよ。
ここで、いつもそばにいるように。