蛍(前編)

 むぎとけんかをしてしまった。

 きっかけは、些細なことだった。二人で蛍狩りに行ったときのこと。夏実に教えてもらった蛍のよく見えるスポットは、確かに蛍はたくさんいた。いたのだ が、 それ以上にたくさんいたのが――。
「……すごい人、だね」
「ホント。どれだけいるのか、考えたくもないや」
 見渡す限り、人、人、人。若いカップルから、親子連れまで、あたりは人であふれ返っていた。みんな思い思いに蛍を見たり、しゃべったり。子ども達は暗い 中、 歓声を上げて走っていく。
 辺りに目をやれば、木の陰で、葉の裏で、足下の水辺でと、そこここで、まるでクリスマスのイルミネーションのように輝く蛍の黄色 い光を目にするのだが、とにかく人が多すぎた。見たいと思うところにすぐ近づけなかったり、話し声が邪魔になったりと、じっくり楽しめるとはとても言えな い。
 また思いがけず気になったのが携帯か ら漏れる光だ。闇の中ではかなり眩しく見えて、気持ちが落ち着かない。辺りが一際強く光ったと思ったら、隣にいたおじさんがフラッシュをたいて、携帯で 写真を撮っ ていた。
「……あれって、写真、撮れてるのかなあ」
「もちろん撮れてるよ。人の頭が、ね」
 瀬伊の声が、かなり不機嫌になっている。ただでさえ、人混みは苦手なのに、これでは蛍の風情を楽しむどころではない。今日はまだ調子がいい方だが、気分 が 良 くなるはずもなかった。

「ね、蛍見たことなかったよね。ホントはダメなんだけど、ちょっとだけ捕まえて見せてあげるよ」
 気を引き立てるように、むぎが言う。
「え? 虫取り網も何も持っていないのに、むぎに捕まえられるの?」
「大丈夫だよ。慌てずに蛍の飛ぶところをよく見てればいいの。すると、手を出すタイミングが分かるよ……うわっ」
 むぎが目の前の草むらで光っている蛍に手を伸ばすと、後ろから男性がむぎにドンッとぶつかってきた。
「あ、すみませんね。……こらっ、待ちなさい」
 勢いで体が揺れた瞬間、蛍はすうっと林の奥へ飛んでいった。
 その後も何度か手を伸ばしたが、子どもがそばを通り過ぎた勢いで逃げてしまったりと、思うようにいかない。
「もう、帰ろうか」
「え、もう? ……ね、もうちょっと奥まで行こうよ」
 瀬伊の言葉に、慌ててむぎが声をかける。まだ来て30分も経っていない。かなりの時間をかけて電車を乗り継いで来たというのに、これではさすがに寂し い。
 む ぎは、瀬伊の手を取って、道の奥へ向かった。

 蛍狩りに来た人は、その小川に沿った小さな小道で見ることになっていた。蛍は、そうした観光客によく見えるように、場所を決めて放してあったらしい。小 道 は 山の奥へ向かって続いていたが、川を離れると蛍の数が減って、辺りは急に閑散としてきた。
「蛍、いないね……」
「あっちは、あんなにいたのにね。どうしてなんだろう」
 瀬伊とむぎは、後ろを振り返った。道の向こうがぼんやり光って見えるのは、先ほどの蛍だろう。人々の喧噪も遠くに聞こえてくる。
「あそこに戻るのも馬鹿馬鹿しいし。もう、いいんじゃない?」
「え、でも。こっちにも蛍、いるかもしれないよ? 瀬伊くん、間近で蛍を見たことないって言ってたじゃない。帰ったら見れないし、見ていこうよ」
「えー、でも、そんな気になれないよ」
 暑くてうるさくて、瀬伊の声がだんだん尖ってくる。むぎはむきになって言葉を継いだ。
「瀬伊くんに見せてあげたいんだって。あたしもお父さんに見せてもらって、すっごく嬉しかったんだから」
「ふーん。君はお父さんに見せてもらって嬉しかったかもしれないけど、僕にはそんなの関係なかったから」
 その瞬間、むぎの顔色が変わったのを見て、瀬伊は「しまった」と思った。言い過ぎだ。苛々していたからといって、両親を亡くしているむぎに言っていい言 葉 で はない。しかし、素直に謝る気になれなかった。

「もう、いい! 瀬伊くんはそこにいて!!」
 そう怒鳴ると、むぎは来た道を駆け戻っていった。しばらく瀬伊は呆然としていたが、慌てて後を追っていくと、むぎが道の端で足首を押さえてうずく まっていた。
「むぎ、どうしたの!?」
「……ちょっと、足くじいちゃって」
 少し目を反らしながら答える。瀬伊が小さくため息をつくと、むぎはきっと顔を上げた。
「でも、見せるんだから。いいから、瀬伊くんは待っててよ」
「……分かったよ。僕が行ってくる」
「……え?」
「僕が捕まえてくると言ったの。いいから、君はここで待ってなよ」
 むぎを道の端の石に座らせると、瀬伊は道の奥へ向かって走り出した。



→後編
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